週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

東野先生墓 采女塚の碑 其の

 橋場、清川、東浅草など浅草北部の寺院には、遊女高尾の墓など江戸時代の硬軟取り混ぜた人物の遺跡がいろいろ残っている。

『江戸名所図会』に「東野先生の墓」とあって「福寿院といへる禅林にあり」と記されている福寿院は、橋場一-十六-二に現存している。

 「先生は下野の人、 (いみな) 煥図 (かんと) 東 壁 (とうへき) (あざな) 、仁右衛門と称す。安藤は養家の姓にして本姓は那須氏なり。徂徠先生に就いて大いに古文を誦し、共に復古の学を唱ふ」

『図会』が簡潔に説明しているように、安藤 東野 (とうや) は今の栃木県出身で、江戸中期の代表的漢学者荻生徂徠の高弟だった。五代将軍綱吉の寵臣柳沢吉保に仕え将来を嘱望されたが、病弱で享保四年(一七一九)数え三十七歳で没した。

 その墓は今、福寿院門前の斜め前、民家に隣接して建っていて都の旧跡になっている。

 福寿院からほど近い清川一-十三-十三の 出山寺 (しゆつさんじ) には、遊女采女ゆかりの碑がある。十七世紀の半ば、新吉原雁金屋の采女は自分を思い詰めて自殺した若い僧の後を追い、十七歳で鏡が池に身を投げた。

 人々は哀れんで池の近くに塚を建てた。「采女塚」で、『江戸名所図会』にも載っているが塚の本体は失われ、文化元年(一八〇四)大田蜀山人らが出山寺に采女塚の石碑を建てた。

 同寺には、俳人宝井其角ゆかりの句碑もある。寛政五年(一七九三)、姫路藩主の弟でありながら絵師や俳人として世を送った酒井 抱一 (ほういつ) らが建てたもので、元禄九年(一六九六)正月、其角が弟子を連れて同寺を訪れたときに詠んだ「草茎をつつむ葉もなき雲間哉」の句が彫られている。

 右側面には「くさぐきの今にのこるや人の口  屠竜 (とりゅう) 」と刻まれている。屠竜は抱一の俳名で、当時、彼は根岸に住んでいた。

(掲載号:10月11日号)