週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
六地蔵 山谷の 東禅寺
隅田川伝説にゆかりの妙亀塚公園から西へ三百メートルほど行くと、南北に走る吉野通りに出る。通りを少し南へ下ると西側の町名は東浅草になり、二丁目の十二-十三の東禅寺の門内に道路・東に向かって大きなお地蔵さまがでんと座っている。
『東都歳事記』に「江戸六地藏參」として「銅佛壹丈六尺坐像なり。享保の始深川の沙門地藏坊正元造立する所なり」と記されている江戸六地蔵の一体である。
正元は若いころに地蔵信仰によって重病を克服した経験があり、十八世紀初め、一念発起して広く寄付を募り六体の地蔵像を建立した。六体というのは京都の六地蔵にならったもので、旅人の安全を願って江戸の出入口六か所に安置した。
一番 品川品川寺(東海道)二番 四谷太宗寺(甲州街道)三番 巣鴨真性寺(中山道)四番 山谷東禪寺(奥州街道)五番 深川霊巌寺(水戸街道)六番 深川永代寺(千葉街道)
このうち永代寺は明治の廃仏毀釈のとき廃寺となり、地蔵像は鋳つぶされて現存していない。また、四谷太宗寺は現新宿二丁目の同寺である。
東禅寺の所在地の地名も、昔は山谷だった。山谷は三谷とも書いたらしく、『新編武蔵風土記稿』は浅茅ヶ原の続きで三野といった、あるいは家が三軒あったので三家または三屋だったのが山谷になったのではないか、と考証している。いずれにしろ山谷は古い地名だったが、昭和四十一年、東浅草や清川に町名変更されてしまった。
その東禅寺の地蔵は、高さ二・七一メートルで宝永七年(一七一〇)神田鍋町(現千代田区鍛冶町)の鋳物師太田駿河守正義によって造られた。損傷がひどくなって平成十一年に修復工事が行われ、胎内仏の小型の坐像地蔵が見つかっている。
(掲載号:09月06号)
