週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

伊賀忍者 半蔵の墓 西念寺に

 正体を現わさないのが忍者の本領である。徳川家康の部将で有名な服部半蔵も分からないところが多い。作家の村山知義は長編『忍びの者』(岩波現代文庫)で、忍者の故郷伊賀をこう描写している。

 <伊賀上野の北十五丁、服部川の向こう岸に、服部という里がある。

服部氏は (はた)氏と同じく「くれはとり」の一族で、大陸からの帰化人の(すえ)である。系図を見ると、もとは煙の精だと書いてある>

大陸から機織 (はたおり)をもたらした人たちが近江から伊賀への山里に住みついたというの である。服部、羽鳥などの姓は機織から出たらしい。近くには陶器業の里、信楽 (しがらき)もある。

家康に重用された服部半蔵は、与力三十騎、伊賀同心二百人を率い、知行八千石を与えられた。江戸では麹町清水谷(しみずだに)(千代田区紀尾井町)に屋敷を構え、江戸城の (から) ()に当たる西口門を警護した。そのため、この門は半蔵門と 俗称された。江戸城で個人名に由来する門名は他にない。

半蔵には大きな心の傷があった。家康の長男、信康は文武に優れ、織田信長の娘を娶っていたが、却って信長に忠誠心を疑われて切腹を 命じられた。天正七年(一五七九)家康はやむなく信長の命に服し、半蔵に介錯 (かいしやく)役を命じた。半蔵は若殿に刀を振り下せず、他の者が信康の首を落とした。晩年、半蔵は出家して麹町に寺を建 て信康の供養に努めた。

慶長元年(一五九六)半蔵は数え五十五歳で世を去った。菩提寺の西念寺は、江戸城の拡張で麹町から四谷に移転した。JR四ッ谷駅か ら南西に歩いて五分ほどの新宿区若葉二-九。入り組んだ路地に囲まれた台地で、大きな本堂わきに古色を帯びた半蔵の墓があり、その 奥に信康供養塔が祀られている。風雨に打たれているが、高さ二・六九メートルの五輪塔である。

(掲載号:08月30日号)