週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

妙亀塚 梅若丸 鏡ヶ池

 橋場のお化け地蔵の南西にある横町のような狭い道を少し南に行くと、左手にこぢんまりした公園・ 妙亀塚 (みよ うきづか) 公園がある。その中央には小高い塚があって、頂上のコンクリート製の祠に板碑がはめ込まれている。 妙亀塚で『江戸名所図会』にも載っている。

 「梅若丸の母公妙亀尼の墳墓なりといひつたふ。小高きところに、草堂を建てて、妙亀大明神と称せり」

 梅若丸とは平安の昔、人買いにされわれ、隅田川のほとりで病死した京都の公家の子供である。母親は子供を探して東国まできたが、 その死を知って悲嘆に暮れる。

 能を初め、いろいろな日本の芸能に取り入れられている「隅田川伝説」のあらましである。梅若丸が葬られたという梅若塚は橋場とは 隅田川を挟んで対岸の墨田区堤通二丁目の 木母寺 (もくぼじ) にあり、こちらのほうがよく知られている。

 母は川越しに梅若塚を望む橋場の草庵で妙亀という尼となり我が子の菩提を弔っていたが、悲しみに耐えきれず投身自殺した。伝説の後日談で、妙亀塚は彼女を葬った墓と伝えられ、身を投げたという池も昔は近くにあった。

 鏡が池で、『江戸名所図会』にも妙亀塚の「西南の方にあり」と記されている。幕末の切絵図にも 浅茅原 (あさじ がはら) の西に「鏡ヶ池」が描かれているが、明治になって埋め立てられた。

 ただ妙亀尼・梅若丸母子は伝説上の人物で、妙亀塚の正体はよく分からない。塚上の祠の板碑には「弘安十一年 戊子 (ぼし) 五月二十二日孝子敬白」と刻まれている。弘安十一年(一二八八)は四月に正応と改元されていて、『図会』は五月を正月としている。

 いずれにしろ板碑は鎌倉時代のもので歴史は古いが、隅田川伝説とは直接関係はなさそうである。『図会』は、千葉一族の武将の墓碑と推定している。

(掲載号:08月09日号)