週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

色彩の饗宴 北原白秋の 東京景物詩

 北原白秋に「花火」という作品がある。大正二年(一九一三)二十八歳で刊行した第三詩集『東京景物詩及其他』のなかの一編である。

<花火があがる、
       ( ぎん と緑の 孔雀玉 ( くじやくだま ……パッとしだれてちりかかる。(下略)>

 冒頭から色彩が舞い、閃光が夜空に広がって散る経過まで写しとられているようだ。

 白秋は明治四十二年(一九〇九)に第一詩集『 邪宗門 ( じやしゆうもん 』を刊行して、明治末期の詩壇に華麗な異国趣味の花を咲かせ、森鴎外や上田敏から高い評価を受けた。その後、大正から昭和まで活躍は詩、短歌、童謡、歌謡曲の作詞にわたっている。

 白秋は福岡県 山門 ( やまと 沖端 ( おきのはた 村(現・柳川市沖端町)に生まれた。生家は江戸時代に柳川藩の御用達を務めた海産物問屋で、父の代には酒造を中心とした豪商だった。明治三十七年、十九歳の時に父の反対を押し切って上京、早稲田大学に入った。

 上京当初は大学に近い牛込区(新宿区) 赤城元町 ( あかぎもとまち の下宿に住んだが、教室で歌人の若山牧水と知り合い、すぐ 穴八幡下 ( あなはちまん の牧水の下宿に移っている。白秋は引越しが好きで、昭和十七年杉並区阿佐ヶ谷で他界するまで転居は四十回に及ぶという。

 青年時代の借家生活が手伝いの女性を雇う豊かさで、友人の石川啄木は「婆や付きの下宿」と羨んだほど。その生家が破産して現金が不足すると、母が江戸時代の小判を送って来たという話がある。

白秋は明治四十一年十月から翌年秋まで神楽坂に住み、「物理学校裏」という作品を生んでいる。物理学校は現在の東京理科大学。近くの中央線はまだ汽車と電車の併用時代で、<汽笛が鳴る……四谷を出た汽車の Cadence ( カダンス が近づく……>と、蒸し暑い夏の一夜の神楽坂が新鮮な近代感覚で描かれている。

(掲載号:07月26日号)