週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

噺家の 総見は 一幕見

 昭和初年、浅草橋場の劇作家宇野信夫の家には、若手の売れない噺家たちがよく遊びにきた。桂文都(後の土橋亭りう馬)、春風亭柳楽(三笑亭可楽)、橘の百円(圓太郎)らで、いつも一升一円の安酒を飲み交わしたものだったと『役者と噺家』(九藝出版)に記されている。

 「一番しげしげ遊びにきてくれたのは、志ん生であった。彼はそのころ、落語会の売れッ子柳家三語楼の一門となって、柳家甚語楼と名のっていたが、最も恵まれない時代で、本所の業平に住んでいた」

 後に型破りの名人として名を馳せた五代目古今亭志ん生(一八九〇-一九七三)は、当時、橋場とは隅田川の対岸の現墨田区業平に住んでいて、架橋間もない言問橋を渡ってやってきた。

 彼の家は関東大震災直後の湿気の多い低地に建てられたバラックの長屋で、塩をかけてもびくともしない大きなナメクジがうようよいて「ナメクジ長屋」と呼ばれた。内職をしていた彼のおかみさんが、そんなナメクジにかかとをかまれたこともあったという。「若い私が甚語楼に敬服していたのは、彼が貧乏を苦にしないことであった。そして、いつも彼の頭にあるものは、稼業の『落語』であるということであった」

 名人の片鱗は、このころからあったといえる。それにしても、当時の噺家は寄席だけが稼ぎ場だった。ラジオもNHKだけで、よほどの名人上手でなければ声は掛からなかった。だが、貧しくても彼らは義理堅かった。

『むかしの空の美しく』(青蛙房)によると、昭和十年、宇野初の歌舞伎作品『吹雪峠』が東劇で上演されたとき、付き合っていた十人あまりの噺家連中が総見してくれた。ただし『吹雪峠』一幕だけの観劇だったのが、いかにも売れない噺家らしい。

(掲載号:06月21日号)