週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

白鬚橋の 橋銭と 橋場今昔

日本俳優学校が昭和六年、日本橋茅場町から浅草橋場に移ってきたおかげで貸家のそば屋が繁盛するようになり、滞りがちだった家賃が順調に入るようになって救われた若き日の劇作家宇野信夫は、後年、『はなし帖』(文藝春秋)に当時の橋場の様子を書き残している。

 「橋場の家は俳優学校の筋向こうにあった。……当時、私の家の隣の布袋屋というそば屋があったが、これが父の家作で、その家賃を父から貰い、それが私の生活費であった。……家の前は銭湯だった。今にして思えば、世話物の道具だてが揃っているような気がする」

 さらに、それより前の関東大震災前、白鬚橋は橋銭、つまり渡り賃を取っていた。
「たしか一銭で、向島側で取っていた。両国の川開きには橋の真ン中へ行くと遠く花火が見えた。花火の時には橋の真ン中に橋銭を取る所がこしらえてあったのを覚えている」

 白鬚橋の西のたもとの橋場から南の今戸にかけての隅田川べりは、昔は 水鶏 ( くいな の名所で別荘地でもあった。江戸名所図会にも川に臨む座敷で二人の男がくつろぐ挿絵があり、「水鶏は橋場のあたり及び佃島を佳境とせり……」との書き込みがある。

 今、白鬚橋の南西のたもとに「明治天皇行幸 ( たいおう 荘遺跡碑」という石碑が建っている 。明治維新の元勲三条実美の別荘があったところで、ここで病気療養をしていた実美を明治天皇が見舞った記念碑である。俳優学校が引っ越した建物も、震災前に有馬頼寧伯爵が自邸近くに開校した夜学校の校舎だった。

 大正のころまで、橋場は清遊地の面影を色濃く残していた。震災後は徐々に下町色が強まり、今はマンションばかりが目立つ。だが、ところどころに昔の名残も見られて散策が楽しめる。

(掲載号:06月14日号)