週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

劇作家を 救済した 俳優学校

 六代目尾上菊五郎が校長の日本俳優学校は、開校して六年目の昭和十一年、経営難のため閉校した。ところが同校の恩恵を受けた人が近くにいて、その人はやがて六代目と深く係わり合うようになる。

 浅草橋場の同校の筋向かいに住む若き日の劇作家・宇野信夫(一九〇四-九一)で、彼は後に二百を越す戯曲を書いて「昭和の黙阿弥」といわれ、芸術院会員や文化功労者になった。だが、当時は慶応大学を卒業して間もない劇作家を志す一青年だった。

 宇野の父は埼玉県熊谷市で紺屋・染物屋を営んでいて、橋場に東京出張所と家作を持っていた。大正十一年、中学(旧制)を出た信夫はその出張所から大学に通い、卒業後もそこで劇作にいそしみ、昭和十九年、一帯が強制疎開で撤去されるまで住み続けた。

 「私の家の隣に布袋屋というそば屋がありましたが、これが父の家作で、その家賃を父から貰い、それが私の生活費でした」。宇野信夫画文集『むかし下町に住みて』(青蛙房版)の一節である。

 ところが、そば屋は客がなくてつぶれそうになり、家賃も滞りがちだった。そこへ昭和六年、俳優学校が日本橋茅場町から移って きた。そば屋には生徒が大勢来るようになり、がぜん繁盛して家賃も順調に入るようになった。

 昭和八年、宇野の『ひと夜』が新劇の友田恭助の築地座によって田村町(現港区西新橋)の飛行会館で上映された。彼の初めての上演戯曲である。同十年一月、『吹雪峠』が東京劇場で二代目市川左団次一座で演じられた。

 そして同年九月の歌舞伎座で『巷談宵宮雨 (こうだんよみやのあめ)』が、俳優学校長・六代目菊五郎の主演で上演された。江戸深川を舞台とするこの怪談は宇野の出世作・代表作といわれる作品で以後、二人の提携は菊五郎の死まで続いた。

(掲載号:06月07日号)