週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

六年間で 閉幕した 俳優学校

 昭和六年、日本橋茅場町から浅草橋場に移ってきた六代目尾上菊五郎が設立した日本俳優学校は、台東区教育委員会作成の「台東区文化財マップ」によると、隅田川沿いを南北に走る橋場通りの西側、区立石浜図書館の少し北の角地辺りに建っていた。

 同校の講師だった渥美清太郎著『六代目菊五郎評傳』によると、当時華族の有馬伯爵が経営していた信愛学院が解散して「浅草橋場にポツンと立つていたのを買収」した三階建ての建物だった。広さは不明だが、買収金額は地面ぐるみ五万円で、当時としても安い値段だったという。

 だが東京の歌舞伎は菊五郎の全盛時代だったものの、彼の金庫には一銭もなく、「某氏がその五萬圓を立替えて支払い、菊五郎は月々家賃5百圓払つてその建物を借りるという約束」で移ってきた。加えて移転前のビルの家賃もかなり滞納になっていた。

 それでも移転の舞台開きには菊五郎の後援者で、その助言で開校を早めたという後の終戦直後の首相・東久邇宮稔彦王も出席、菊五郎がめでたく三番叟を披露した。だが、「裏へ廻れば妻君と牧野(支配人)とが、血みどろになつて金策に奔走しているのであつた」というありさまだった。

 こうした状態と、菊五郎一門以外の役者の非協力、無関心で同校は五期生が卒業した昭和十一年三月で解散の憂き目を見た。それでもこの間、卒業生と在学生で日本俳優学校劇団を結成し、東京劇場などで二十五日間の本興行を行うなどの実績を残した。このとき初演された長谷川伸作の「暗闇の丑松」は、今でも上演されることがある。

 卒業生には戦後、新劇や映画で活躍した三津田健、加藤嘉、山形勲、荒木玉枝らがいて、日本俳優学校は演劇史に残る菊五郎の功績の一つとされている。

(掲載号:05月17日号)