週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
六代目 菊五郎と 俳優学校
歌舞伎関係者の間では、単に「六代目」といえば昭和前期の名優・六代目尾上菊五郎(一八八五−一九四九)を指している。このような例は、他に「団・菊」と並び称された明治の名優九代目市川団十郎と、六代目の父の五代目菊五郎にあるだけである。
老若男女の役を巧みにこなした上に踊りも優れた彼の演技力が、誰からも認められていたからだろう。現在の歌舞伎界にとっても大きな存在で、その影響を少なからず受けている。
彼の舞台には当然、客席から屋号の「音羽屋」の声が多数掛けられた。ところが、昭和五年からの数年間、音羽屋にまじって「校長先生」という声が掛かったことがある。
この期間、六代目は本物の校長先生だったからである。彼はかねてから役者・俳優を養成する学校を設立する構想を持っていた。自分の芸を研鑽するだけの昔気質の人ではなく、日本の演劇界全体の将来を考えている近代的な感覚を持った人でもあった。
昭和五年四月、折からの不況にもめげず日本橋茅場町のビルの二階分を借りきって四年制の日本俳優学校を開校した。生徒は役者の師弟以外の一般からも募集した。 昭和五年四月、折からの不況にもめげず日本橋茅場町のビルの二階分を借りきって四年制の日本俳優学校を開校した。生徒は役者の師弟以外の一般からも募集した。
講師には守隋憲治・山本有三・浜村米蔵などの演劇研究家や劇作家、一流の舞踊家や邦楽家さらに歴史や地理、外国語の専門家もそろえた。校長・六代目も「倫理」を受け持ったが中身は芸談で、これが生徒以外にも好評だった。
「種はよし、話し方は面白し、」生徒は何よりこの時間を喜んだ。私なども校長の倫理のときには缺かさず教場へ詰めかけた」。講師で演劇史を受け持った渥美清太郎著『六代目菊五郎評傳』(冨山房)の一節である。
同校は翌年十一月、浅草橋場にある三階建ての建物を買収して移転した。
(掲載号:05月03・10日合併号)
