週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
因縁の 早慶戦 神宮球場
早慶戦には、百年を超える、波瀾に富んだ歴史がある。
早慶の第一戦が行われたのは明治三十六年(一九〇三)十一月二十一日。場所は慶応の網町球場だった。当時の慶応のホームグラウンドで、今も慶応中等部などの運動場として使われている。
日本の野球は、明治六年、神田一橋にあった開成学校(現・東京大学)のアメリカ人英語教師ウイルソンが学生に教えたのに始まるという。旧制一高(現・東大教養学部)の全盛時代に続いて、この頃慶応や早稲田の野球部が目ざましく力を伸ばしていた。
当日の試合開始は午後一時半。待ち構える慶応側の前に、早稲田の選手と応援学生の一団が姿を現したのは一時間前で、早稲田から四谷、赤坂、麻布を経て三田までの三里(約十二キロ)を歩いてきたのだった。
<東京都内を移動する当時の交通機関は人力車だけ。用具を運ぶマネージャーだけは人力車に乗って三田へ向かった>(富永俊治『早慶戦百年』講談社)からである。
第一戦の試合結果は慶応11-9早稲田。これから伯仲の熱戦が繰り広げられるが、三年後の明治三十九年、両校の応援合戦が過熱して一触即発の事態を招いたため、思いがけない中断期を迎える。やがて、明治、法政、立教が参加して大学リーグの形態ができるが、奇妙な事に慶明戦、早法戦はあっても早慶戦だけはないという変則状態が続く。
早慶戦が再開されたのは実に十九年後の大正十四年(一九二五)だった。新に東大が加わって六大学リーグが結成され、最後まで拒否反応を示していた慶応OBがやっと折れたのである。この年、神宮外苑に最新設備の神宮球場建設が開始され、翌年から東京六大学リーグの本拠地となった。新時代の風が旧怨を吹き飛ばした。
(掲載号:04月26日号)
