週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

里見八犬伝 滝沢馬琴 終焉の地

 『南総里見八犬伝』を書いた 滝沢馬琴 (たきざわばきん) は、天保七年(一八三六)数えの七十歳で神田 同朋町 (どうぼうちょう) (現・千代田区外神田二丁目)から四谷信濃坂(新宿区 霞ヶ丘町 (かすみがおかまち) )に転居した。

 馬琴は一定の原稿料収入があった日本で最初の作家といわれている。『八犬伝』の他にも『 椿説弓張月 (ちんせつゆみはりづき) 』『 近世説美少年録 (きんせいせつびしょうねんろく) 』などのベストセラーを連発していた。下級武士の生まれで侍気質の抜けぬ馬琴は生真面目で、原稿の締め切り時間を守ったことでも有名だ。それにもかかわらず家計は決して楽ではなかった。

 馬琴は本名滝沢 興邦 (おきくに) 。筆名に 曲亭 (きょくてい) 馬琴を用いたが、終生滝沢の家名を守ることにこだわった。浪人して飯田町 中坂 (なかざか) (千代田区九段北)の下駄商 会田 (あいだ) 家の入り婿になったが、姓を変えなかった。病弱の長男 宗伯 (そうはく) (医師)を一人前の跡継ぎにするため医療費を注ぎこみ、就職斡旋に骨折った。

 その宗伯が、天保六年、三十八歳で病死した。残った八歳の孫、太郎に最後の望みを懸けた馬琴は収集した愛書を売り払って金を工面し、小録の御家人株(鉄砲組同心)を譲り受けた。孫のために定収と身分を買ってやったのである(麻生磯次『滝沢馬琴』吉川弘文館人物叢書)。

 幕末の江戸切絵図「四谷絵図」を見ると、永井信濃守の下屋敷(新宿区信濃町)の東南に御先手組、御鉄砲場など幕府役人の屋敷町がつながっている。馬琴が転居したのは、その一画の古屋敷だった。

 晩年の馬琴は過労と老齢のため失明した。頼りは嫁のお (みち) だけ。だが、お路はほとんど読み書きできなかった。現代で言えば猛特訓。馬琴はお路に文字を教えながら、ついに『八犬伝』を完成した。数年後、お路は馬琴の代筆で揮毫までした。奇跡に近い才能と精進である。旧居は、今のJR中央線信濃町駅南口歩道橋付近に当たる。

(掲載号:04月12日号)