週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

笹寺 観音 蟇塚(かまづか)

 天正十八年(一五九〇)徳川家康が江戸に入った頃、四谷のあたりは一面ススキの原だったという。甲州街道(新宿通り)は、ススキの海のなかの一筋の道だった。

 東京メトロ丸ノ内線の四谷三丁目駅から新宿通りを新宿御苑方向に歩く。約三分、通りの南側に「四谷山笹寺」と大書した石柱が立っている。長善寺(新宿区四谷四—四)、通称 笹寺 (ささでら) である。二代将軍秀忠が立ち寄り、寺内の笹の繁茂から命名したと伝えられる。今は、残念ながら、通りから入った山門の脇に笹の植え込みがあるだけである。

 寺の由緒は古い。戦国時代末期、武田信玄の遺臣、 高坂弾正 (こうさかだんじよう) がここに庵を結んだ。高坂は信玄や軍師・山本勘助の事績を書き残した『 甲陽軍艦 (こうようぐんかん) 』の著者として名高い。寺宝には将軍秀忠の念持仏「めのう観音」がある。像高四・九センチの赤めのう製で、秀忠夫人嵩源院の寄進という。

 本道脇の墓地の入り口に石塔があって、蟇塚と書いてある。傍らには茶色いガマの陶器像が飾ってある。昭和十二年、隣接する信濃町の慶應義塾大学医学部生理学教室の加藤元一教授と門下生が実験に使った動物を供養するために建てたものである。

大正九年、慶大医学部の発足当時、初代医学部長・北里柴三郎の右腕となって活躍した北島多一(のち慶大医学部長)の回想がある。北島は、病院の設計を担当した高名な建築家、中條精一郎(旧東京海上ビル、如水会館など設計。作家宮本百合子の実父)に細かく注文した。「堂々たる建築を避け、入り口など患者の便利を第一に。診療各科も閉鎖的にならぬように」。

 生理学の加藤教授は、創設メンバーの一人として京都大学から参加している。実験動物にも心を配った蟇塚には、今も、四季新しい花が供えられている。

(掲載号:03月22日号)