週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

橋場は 昔の橋の 名残か

 平賀源内の墓が残っている白鬚橋南西側一帯の橋場は、文字通り橋に由来する地名らしい。『江戸名所図会』に「今神神宮の辺より南の方今戸を限り、橋場と称す」とあり、詳しい地名考証も載っている。

 神神宮は現在の石浜神社で所在地の今の地名は荒川区南千住三丁目になる。つまり、江戸時代の橋場は現在より北へ広がっていた。

 その橋場について、同書はまず『東監』や『義経記』などを調べている。

 それによると、治承四年(一一八〇)、平家打倒の旗揚げをした源頼朝が安房や上総などの軍勢を率いて下総から武蔵に入ろうとしたときである。国境の隅田川が豪雨で増水し渡河が困難になった。

 頼朝は配下の江戸太郎重長に、船を並べてその上に板を渡す 浮橋 (うきはし) の架橋を命じた。重長は他の武将の応援を得て、多数の船を集めて三日の内に浮橋を完成させた。

 橋場の地名は、この浮橋に由来するというのが一説。

 同書は、また十四世紀初めの鎌倉時代に編纂された歌集『 夫木和歌抄 (ふぼくわかしょう) 』に公家の藤原光俊が康元元年(一二五六)鹿島神宮に参詣する途中、隅田の渡しに浮橋が架かっていたのを見たという言葉書の歌が載っていると指摘している。

 さらに、室町中期の禅僧・ 万里集九 (ばんりしうく) の漢詩文集『 梅花 (ばいか) 無尽蔵』に、十五世紀半ば、太田道灌が下総の千葉氏を攻めたとき、橋を架けたという詩註がある。また十八世紀半ばに著された『 南向茶話 (なんこうさわ) 』に隅田の渡しの上流の川底に橋の古い杭が残っていて船の運航に支障があったと記されているという。

 それらを勘案すると、橋場という地名は道灌の頃に付けられたのではないかと推定している。いずれにしろ、江戸時代以前にも隅田川には一時期、橋が架かっていた可能性が強い。

(掲載号:03月01日号)