週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

最後の剣客 榊原鍵吉 西応寺

 幕末随一の剣豪といわれるのが、幕府講武所教授の 榊原鍵吉 (さかきばらけんきち) である。その荒稽古を、みずから剣道修行に励む作家の津本陽が『日本剣客列伝』(講談社)に活写している。

 当時の道場では、一日の稽古時間が八時間というのが、ふつうだった。鍵吉たちは腕を鍛えるために振り棒というものを振った。長さが六尺(1.8メートル)で、重さが三貫匁(約11キロ)である。

 <私はいま二キロ強の振り棒を使っていて、それがどれほど重いものであるかを身にしみて知っている。

 二キロの棒を振ったあとで木刀を振れば、紙細工を振っているようにまったく重みを感じないものである。

 三貫匁の振り棒とはどのようなものか、と津本は舌を巻き、<鍵吉の上膊部は、荒稽古によって腕回りが五十五センチもあったといわれるが、それほどの太い腕は現代のプロレスラーにもめったに見られないものであろう>と書いている。

 「武士は二君に仕えず」の信念を通して、鍵吉は明治の新政府からの誘いに応じなかった。鍵吉の道場の窮乏を見兼ねて、侠客の 新門辰五郎 (しんもんたつごろう) らが撃剣興行を勧めた。明治五年、浅草左衛門河岸(台東区浅草橋)で有名な撃剣会を開いたが、これも弟子たちのためで「剣を商売にはしたくない」と言って続けなかった。

 やむなく辰五郎らは道場を寄席にして人気のある芸人を集めた。ところが義理堅い鍵吉が袴姿で「明日の晩もまたくるのじゃぞ」と挨拶するので客に敬遠されてしまった。

 明治十九年、鍵吉は明治天皇天覧のもとで、見事に (かぶと) 割りを実演してみせた。鋼鉄の兜を日本刀で斬るという至難の業だった。侍の意地を貫き、鍵吉は同二十七年、六十五歳で世を去る。墓は、四谷の西応寺(新宿区須賀町11)にある。

(掲載号:02月22日号)