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週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

四谷三丁目 塩原多助と 忍原(おしはら)横丁

 東京メトロ丸ノ内線の四谷三丁目駅は、新宿通りと外苑東通りの交差点にある。

 このあたり、江戸時代には甲州街道の要衝で幕府直参の武家屋敷、大名屋敷が並んでいた。交差点のすぐ南の左門町 (さもんちょう)御先手組頭 (おさきてくみがしら)、諏訪左門の屋敷地だった。その先の信濃町 (しなのまち)は大和・櫛羅 (くじら)藩(現・奈良県御所 (ごせ)市)永井信濃守の下屋敷があった。いずれも町名はそこから出ている。

 四谷三丁目の交差点から東へ四谷駅方向に歩く。百メートルも行くと、南へ折れる横丁があって、女夫坂 (めおとざか)の名がある。ゆっくりと下って上がる坂があるので二つを一緒にして女夫としゃれたのである。

 この横丁、江戸時代後期の切絵図「四谷絵図」を見ると「忍原ヨコ丁」と出ている。これも武家屋敷に由来する地名で、武蔵・ (おし)城(埼玉県行田 (ぎょうだ)市)の城代を勤めた高木九助の拝領屋敷があったところ。江戸初期、付近は一面の草原だったから忍原なのである。

 忍原横丁には、もう一つ、塩原横丁の名もあった。その由来は、明治の落語の名人、三遊亭円朝の『塩原多助一代記』に詳しく語られている。

 明和二年(一七六五)、薪炭商山口屋善右衛門の手代だった塩原多助が寝食を惜しんで貯えた二十両の身銭 (みぜに)をそっくり注ぎこんで、この横丁の道普請をする物語である。

 きっかけは単純で、平素薪炭納入のため往復する忍原横丁が悪路なので、これを直せば人助けにもなると考えた。誠実で、ひたすら商売に励む多助に、悪人も入りまじって波乱万丈、結局は多助の誠意が通じる。実話に基づいた (はなし)なので、地元には塩原横丁の名が今も語り継がれている。

 この横丁を南へたどると、四谷の鎮守、須賀神社 (すがじんじゃ)(新宿区須賀町五)に通じ、また近くには、四谷怪談で有名な於岩稲荷 (おいわいなり)田宮神社(同区左門町一七)がある。

(掲載号:02月15日号)