週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

相撲とは 無関係 大関横丁

 東京メトロ日比谷線の三ノ輪駅から北口階段を上ると、明治通りと昭和通りの交差点に出る。交差点付近は飲食店などの商店が多く、ちょっとした盛り場の観がある。

 信号機の上を見ると「大関横丁」とあり、明治通りの都バスの停留所にも同じ名前が付いている。横丁と呼ぶには戸惑うほどの広い交差点でもある。

 一瞬、大関クラスの大きい交差点という意味でもあるのか、あるいは近くに名大関と呼ばれた力士の住まいでもあったのか、と土地不案内の者なら思ってしまいそうである。

 だが相撲などとは無関係で江戸時代から明治初めまで、この付近に下野(栃木県)黒羽藩一万八千石の領主大関信濃守の下屋敷があったために付いた地名に他ならない。

 十九世紀半ばの嘉永年間に刊行された近江屋板切絵図の「下谷三ノ輪浅草三谷辺之絵図」を見ると、大関信濃守の屋敷は図の上部、方角でいえば西端に近いところに書き込まれている。

 西隣は伊予(愛媛県)新谷藩一万石の加藤大蔵少輔、東隣は対馬府中十万石の宗対馬守のそれぞれ下屋敷である。つまり、大関家は三つ並んだ屋敷の真ん中である。また、大関、宗両家の前、道一つ隔てた北側には伊勢(三重県)亀山六万石の石川日向守の下屋敷が書き込まれている。

 これらの下屋敷は、現在なら大関横丁の西方、荒川区東日暮里辺りになると思われる。それにしても、四家の大名の屋敷が固まってあったのに、なぜ大関の名が横丁の名となったのだろう。

 幕末の藩主 増裕 (ますひろ) は若年寄など幕府の要職を務めたが、内縁の夫人と一緒に馬で江戸市内を乗り回すなどの奇行で評判を取った。こうしたことから大関の名がより有名になり、屋敷近くの横丁名になったのではなかろうか。

(掲載号:02月08日号)