週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

エレキテル 人形浄瑠璃 平賀源内

エレキテルで有名な平賀源内(一七二八-七九)は讃岐の国(香川県)の出身で、名は国倫 (くにとも) 、または国 (むね) 、源内は通称だった。他に鳩渓 (きゆうけい)・風来山人・天竺 (てんじく)浪人・悟道軒・季山などの号や別名がある。

 これだけでも彼の多方面にわたる活躍ぶりがうかがえるが、その名を高めたのは摩擦静電気発生装置のエレキテルを復元製作したことだろう。

 「エレキテルとの出会いは、一七七〇年(明和七)から七一年にかけての、源内二度目の長崎行きでのことといわれる」(金子務著『ジパング江戸科学史散歩』河出書房新社)

 装置は壊れていて、彼は江戸に持ち帰って修復した。この長崎行きの年の正月、江戸・外記座で南北朝時代の南朝の武将・新田義興の悲劇を題材とした人形浄瑠璃「神霊矢口渡」が初演されている。作者は福内鬼外 (ふくうちきがい) 、源内である。

 この芝居は、義興を祭神とする新田神社(大田区矢口)の神主が荒廃した社殿を復旧しようと神社の縁起を脚色して欲しいと源内に頼んだものだった。大当たりで、神社も繁盛を取り戻し、社殿を修復することができたという。土用の丑の日と鰻屋の話に似ていないこともないが、源内の多才ぶりがうかがえる。

琥珀 (こはく) (ちり)や磁石の針」という科学者らしい浄瑠璃の文句が入っている『矢口渡』は歌舞伎にも取り入れられ、今もときどき上演されている。

 彼は誤って人を殺し、不幸にも獄中で死去した。今、白鬚橋西の明治通り南側に「平賀源内の墓」の標識があり、そこから南へ二本目の道を右に曲がると築地塀に囲まれた一画があって、その中に墓がある。この辺りは曹洞宗総泉寺の広大な寺域だったが、寺は昭和の初めに板橋区小豆沢に移り、源内の墓だけがここ台東区橋場に残った。墓は隣家が管理していて、公開はされていない。

(掲載号:02月01日号)