週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

戸山公園は 御三家筆頭 尾張下屋敷

 時代劇「水戸黄門」のクライマックスは葵の御紋入りの印籠である。助さんが「この印籠が目に入らぬか」と声を張りあげると、どんな悪人でも土下座してしまう。

 尾張、紀伊、水戸の御三家は、いずれも徳川家康の子で二代将軍秀忠の弟が藩祖になっている。宗家に継承者が絶えた時には御三家から跡継ぎが入る定めだったから、御三家にだけ徳川の姓を名乗り、家紋に葵を使うことが許されたのである。尾張藩が61万9千石、紀伊藩が55万5千石、水戸藩が35万石と禄高も諸大名に比べズバ抜けていた。

 御三家の格式は将軍との謁見の際にも明瞭だった。竹内誠・江戸東京博物館長によると、御三家との謁見には天下の将軍が (しとね) (敷物)を取り払う礼を取り、年始の拝礼でも将軍から頂いた酒の杯を返す御返杯が御三家にのみ許されたという(新宿歴史博物館展示図録『尾張家への誘い』)。

 御三家筆頭の尾張藩は、市谷の上屋敷(現・防衛庁)、麹町の中屋敷(上智大学付近)、新宿区戸山の下屋敷(都立戸山公園一帯)の他、日本橋 蛎殻町 (かきがらちょう) に藩の特産物販売役所である「 瀬戸物会所 (せとものかいしょ) 」など、幕末の時点で江戸に43ヶ所に及ぶ屋敷地を持っていた。

 東京メトロ東西線の早稲田駅を降りて、早稲田通りを西へ行くとすぐ 穴八幡宮 (あなはちまんぐう) 前に出る。八幡宮の手前を左に折れると早稲田大学文学部で、その先に都立戸山公園の入り口がある。ここが尾張藩の下屋敷「戸山荘」跡である。

 江戸時代の「戸山荘」は広さ十三万六千坪(約45万平方メートル)だった。現在の都立戸山公園の面積は約18万平方メートル余だから、往時の半分以下になっている。明治に入り、陸軍戸山学校、幼年学校などが置かれ陸軍の教育訓練の中枢になったが、戦後は一転して戸山ハイツと呼ばれる住宅団地を誕生させた。

(掲載号:01月04日・11日合併号)