週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

練塀町は 千代田区に 残った

「悪に強きは善にもと、世のたとえにもいうとおり、親の嘆きが 不憫 (ふびん) さに、娘の命を助けようと、腹に企みの 魂胆 (こんたん) を練塀小路にかくれのねえ、お数寄屋坊主の宗俊が・・・・・・」

 河竹黙阿弥作『 天衣粉上野初花 (くもにまごううえののはつはな) 』三幕目「松江家玄関先」の場での河内山宗俊の 啖呵 (たんか) である。宗俊を始め片岡 (なお) 次郎(直侍)、暗闇の丑松、金子市之丞、森田屋清蔵、 三千歳 (みちとせ) の六人・天保六花撰が活躍するこの芝居は明治十四年三月、東京新富座で初演された。

 団・菊・左といわれた明治の名優九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左団次が勢ぞろいした豪華な舞台で、特に団十郎の河内山は好評だった。

 河内山は、実在の人物だったといわれる。宗俊は宗春が正しく、水戸徳川家が蔭富・ヤミの富くじを向島の下屋敷で行っているのを嗅ぎつけ、同家をゆすったことで牢に入れられた。しかし御三家の一つがかかわっているので、奉行所は表沙汰にできず、密かに毒殺してしまった。文政六年(一八二三)のことで、四十一歳だったという。

 その河内山が住んでいたという練塀小路は『御府内備考』に「外神田松永町と相生町の間より北へ通る小路なり。・・・・・・南の隅河野某が屋敷に目立たる練塀ありし故呼名とすれど、今はかへりて通名の如くなせり」とある。武家地の中の通りの通称名だった。

 幕末の切絵図の「上野・下谷・外神田辺絵図」を見ると確かに神田松永町と相生町の間の北へ延びる通りに「下谷練塀小路ト云」ある。また南端西側の屋敷に「河野長十郎」と記されている。

 明治五年、一帯が正式に練塀町となったが、昭和十八年、南半分が神田区(現千代田区)に編入された。さらに同三十九年、台東区側は秋葉原となり、千代田区側の神田練塀町だけが残った。

(掲載号:12月21日号)