週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

三筋の 由来と 斎藤茂吉

ドンド焼きの鳥越神社が鎮座する台東区鳥越二丁目の北に位置して、東西を新堀通りと左衛門橋通り、北を春日通りに囲まれた一画は 三筋 (みすじ) というちょっと珍しい町名である。南半分が一丁目、北が二丁目になる。

 昭和三十九年に改めて編成された町ではあるが、元をただせば江戸時代の俗称地名で明治五年に浅草東三筋町、同西三筋町が正式な町名となった。『御府内備考』に俗称「三筋町」の由来が載っている。「鳥越明神の北の方なり。」與力同心大蠅組屋敷三區、竪長に竝びあるゆへ此名あり」

 だが、幕末の切絵図を見ると、組屋敷は四区縦長に並んでいてそれぞれの間に三本の道が通っている。小森隆吉著『江戸浅草町名の研究』(叢文社)には、「由来は三筋の道があったのによるとすべきであろう」と記されている。

 いずれにしろ江戸時代は武家地で町名はなく、三筋町は俗称だった。明治になって正式町名となり、庶民の町となった三筋町で学生時代を過ごしたのが、医師で歌人の斎藤茂吉(一八八二-一九五三)である。

 彼は明治二十九年、十四歳のときに山形県から上京して浅草区東三筋町五十四番地の斎藤医院・斎藤紀一の養子となった。開成中、一高を経て東京帝国大学医科大学を卒業して医師となり、後に青山脳病院長にもなった。その傍ら作歌に励み、アララギ派の歌人として名を成した。芸術院会員となり、昭和二十六年に文化勲章を受章している。

 茂吉にとって三筋は第二の故郷といえる。大学をでて長崎医学専門学校の教授として赴任していたとき「浅草の三筋町なるおもひでも うたかたの如や過ぎゆく (かげ) の如や」の歌を詠んでいる。今、三筋二丁目の区立三筋老人福祉館の前庭に、この歌を刻んだ歌碑が建っている。

(掲載号:12月14日号)