週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
都の西北 ワセダの 揃い踏み
早稲田大学の前身、東京専門学校は、明治十五年、東京西郊の南豊島郡下戸塚村早稲田(現・新宿区戸塚町)に開校した。ここに創設者、
<この早稲田と云う土地は昔封建時代には、大名の別荘などがまれにあったところで、わが輩のこの邸は高松の殿様松平讃岐守の屋敷で、唯の一軒家であったのである。(中略)今学校のある所は、井伊
大隈の没後、大隈邸は早稲田大学に寄付され、その一画に大隈講堂が建てられたが、大名庭園の遺風を残した名園は復元されて大隈庭園として広く親しまれている。
大隈庭園の西隣、通りを渡ったところが<井伊掃部頭の別荘地>で、いまは大学校舎が林立し、正門を入った正面広場には朝倉文夫作の大隈重信像が立っている。
東京専門学校が早稲田大学と改称したのは明治三十五年のことだが、有名な「都の西北早稲田の杜に」で始まる校歌が誕生したのは創立二十五周年にあたる明治四十年(一九〇七)である。
記念校歌を校内で公募したが、よい作品がない。審査員の坪内逍遥と島村抱月が困って、早大を卒業したばかりの新進詩人、
音楽に精通していた国語学者の金田一春彦は『日本の唱歌』(講談社文庫)のなかで、全国の校歌中最も著名なものとし、早稲田、早稲田と学校の名を連呼するところは型はずれだが応援歌には絶好で、このあとの校歌の模範になったと評している。
(掲載号:11月30日号)
