週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

小芝居の 雄だった 宮戸座

幕末の江戸唯一の興行街・猿若町も、明治になってから中村・市村・守田の江戸三座が次々に移転した。このうち中村座は近くの新鳥越町に移ったが火事で焼け、廃座となった。これで浅草と芝居との縁は薄れたようだが、小劇場の歌舞伎、いわゆる小芝居はなかなか盛んだった。
 常盤座、浅草座、松竹座、観音劇場、公演劇場などの他に、名物の凌雲閣・十二階にも十二階劇場があった。なかでも 宮戸 (みやと) 座が有名だった。

 「吾妻座、即ち後の宮戸座は小芝居の代表的存在であつた。後年の大芝居の名優にはここで修業をした人も何人かあつたし、大芝居や他の小芝居では見られない、江戸古来の芸風を長く伝へてゐて、当時の識者を喜ばせてもゐた」

 阿部優蔵著『東京の小芝居』(演劇出版社)「宮戸座」の一節で、同座は明治二十年十一月、浅草千束町二丁目に「吾妻座」の名で開場した。伊原敏郎著『歌舞伎年表』明治二十年の項に「十一月十五日、公園、吾妻座開業。 訥子 (とつし) 、九蔵」と記されている。

 訥子は勇ましい役が得意で猛優の異名を取った七代目沢村訥子、九蔵は後の七代目市川団蔵で、明治の名優九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎と並び立つほどの役者だった。同座には、以降も腕達者の役者や若手の有望株が出演して芝居ファンを喜ばせた。

 ただ経営的には必ずしも順調とはいえず、明治二十九年九月、座名を宮戸座と改めて改築開業した。以来、曲折はあったものの、同座は小芝居の雄として名を馳せた。

 その全盛は大正時代で関東大震災に被災して復興したが、昭和になってからは映画などに圧されて経営不振が続き十二年二月、廃座となった。

 今、浅草寺裏の小松橋通り東側歩道の浅草三-二十二-七に「宮戸座跡之碑」が建っている。

(掲載号:11月23日号)