週刊新潮「タワークレーン」
天元から 渋川春海 天文屋敷
囲碁は、よく天地自然に見立てられる。碁盤の中央の星を天元と呼ぶのも面白い。
江戸時代に囲碁の家元、安井家に生まれた安井算哲は幼少時から利発で、囲碁だけでなく天文観測に強い興味を持った。寛文十年(一六七〇)本因坊道策(との御城碁で一手目を天元に放ったことで有名である。天文研究から生まれた自慢の一着だったという。
本因坊道策は現代でも囲碁の神様と言い伝えられている名人だったため、算哲は碁盤の上では一歩を譲ったが、五代将軍綱吉はその算哲を幕府の初代天文方に任命した。
囲碁から転身した算哲は渋川と改姓し、暦学者の渋川春海(しぶかわはるみ)として名を残した。平安時代以来わが国で使用されてきた宣明暦(にズレが生まれていることを明らかにし、貞享元年(一六八四)日本人による最初の暦を完成し、幕府に採用された。これが貞享暦(である。
陰陽道の本家、京都の土御門(家は幕府の処置を不満として巻き返しに出たため、幕府は明和元年(一七六四)天体観測の適地として牛込台を選び、新暦調御用所(を設置した。現在の神楽坂上、光照寺(新宿区袋町一五)門前あたりで、ここが江戸の最初の天文台だったのである。
いま、光照寺前の道を挟んで立つ出版会館(同区袋町六)敷地に「新暦調御用所(天文屋敷)跡」の案内板が出ている。それによると、ここは旗本奴(の頭領、水野十郎左衛門の屋敷跡でもあり、町奴(の頭領、幡随院長兵衛が謀殺されたところだという。寛文四年、水野が幕府の咎めを受けて切腹し、その後、屋敷も類焼して空地になっていたので天文屋敷用地に採用されたらしい。
江戸最初の天文台は明和六年、暦法修正の大任を果たし、天明二年(一七八二)浅草鳥越へ移転した。向かいの光照寺の樹木が茂り邪魔になったのが原因だった。
(掲載号:01月26日号)