週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

駒形に あるのは 諏訪神社

 隅田川に架かる駒形橋の北西のたもとに建っている駒形堂は、平安時代からの古い歴史があるだけに、町名の駒形は当然この堂にちなんで付けられた。『江戸名所図会』にも「駒形堂」の項に「地名もまたこれに因つておこる」と記されている。

 しかし、現在の駒形堂の所在地は駒形ではなく雷門二丁目である。関東大震災後の駒形橋架橋で移設されたためで元は現在地より五十メートルほど南西にあった。

 幕末の切絵図を見ると、浅草寺の雷門南方の隅田川べりに北から順に「駒形丁」「駒形堂」「駒形町」と記されている。また、駒形丁、駒形町の西側にも現在の江戸通りを挟んでそれぞれ同名の町が描かれている。つまり、当時の駒形堂は駒形町のほぼ中央に位置していた。

 現在の駒形は、駒形堂の南を走る浅草通りの南側で、中央を江戸通りが貫いている。この駒形で知られているのは何といっても「どぜう」だろうが、そのどぜう屋の少し南の江戸通りにこぢんまりと鎮座している諏訪神社は江戸時代以前からあるお宮である。

 『江戸名所図会』に「諏訪明神社」とあって「同所諏訪町にあり。祭神は信州の諏訪に同じく、健御名方命(たけみなかたのみこと)なり」と記されている。

 東京都神社庁発行の『東京都神社名鑑』に、同神社は武家勢力が京都朝廷を圧倒する契機になった承久の乱(一二二一)の後、信濃国諏訪郡の神官によって諏訪大社の分霊が現在地に祀られたと伝えられているとある。つまり、創建は鎌倉時代にさかのぼる。

 江戸時代、神社名にちなんで周辺は諏訪町と名付けられた。絵図にも、駒形町の南に同町より広い範囲に「諏訪町」と記されている。しかし昭和九年、全域が当時の浅草駒形町一丁目に編入され、諏訪町は消滅した。

(掲載号:02月02日号)