週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

手向野 戸田茂睡 金竜寺

 今、その所在地ではないが駒形堂に由来する駒形の西隣一帯の町名は寿である。寿の先祖ともいえる浅草寿町は明治三年に誕生し、二度の改変を経て昭和三十九年、現在の寿一−四丁目が成立した。

 江戸時代には、町の西側は浅草の新寺町の続きで、寺が多かった。今もその名残が幾分あるが『江戸名所図会』に「手向野(たむけの)」とあるのは、この寿一帯を指していたらしい。

 「寛文の頃、戸田茂睡といへる哥人(かじん)、この所に草庵をむすびしばらく住めり。一子伊右衛門なるもの天和二年十八歳にして卒せり。故にこの手向野に葬る。傍に碑を立てて手向野と彫りて和哥を記す」

 戸田茂睡(とだもすい)(一六二九−一七〇六)は江戸時代前期の歌人で待乳山聖天に歌碑を建てたことで知られている。『図会』は続けて「その地は同所金竜寺の境内にして、茂睡夫婦並びに一子伊右衛門が墓さへあり。されば金竜寺のあたりを手向野と、『紫の一本』にもいひしなるべし」と記す。

 金竜寺は今も寿二丁目に健在で、江戸中期の国学者荷田在満(かだのありまろ)の墓があるが、茂睡らの墓は残っていない。『紫の一本(ひともと)』は茂睡が書いた古い江戸の地誌で『江戸名所図会』も所々で引用している。

 同書は、茂睡が息子に手向けた石碑は金竜寺に近い新寺町の東陽寺の境内にあるとも記している。だが、碑は関東大震災で破損し、同寺は現足立区東伊興に移った。

 「或人云ふ、この辺往古(むかし)は奥州海道にして刑罰場なり。その頃往来の人香花(こうげ)など手向ければ、かく唱へし、といへどもしるべからず」

 『図会』には、こうも書いてある。江戸の刑場は初め都心の日本橋本町にあったが、後に南北二個所になり、北は小塚原に落ち着くまで浅草地区を二度移転したので、手向野の由来は、この説が案外妥当かもしれない。

(掲載号:02月09日号)