週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
手向野 戸田茂睡 金竜寺
今、その所在地ではないが駒形堂に由来する駒形の西隣一帯の町名は寿である。寿の先祖ともいえる浅草寿町は明治三年に誕生し、二度の改変を経て昭和三十九年、現在の寿一−四丁目が成立した。
江戸時代には、町の西側は浅草の新寺町の続きで、寺が多かった。今もその名残が幾分あるが『江戸名所図会』に「
「寛文の頃、戸田茂睡といへる
金竜寺は今も寿二丁目に健在で、江戸中期の国学者荷田在満(かだのありまろ)の墓があるが、茂睡らの墓は残っていない。『紫の
同書は、茂睡が息子に手向けた石碑は金竜寺に近い新寺町の東陽寺の境内にあるとも記している。だが、碑は関東大震災で破損し、同寺は現足立区東伊興に移った。
「或人云ふ、この辺
『図会』には、こうも書いてある。江戸の刑場は初め都心の日本橋本町にあったが、後に南北二個所になり、北は小塚原に落ち着くまで浅草地区を二度移転したので、手向野の由来は、この説が案外妥当かもしれない。
(掲載号:02月09日号)
