週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

むかし竹矢来 いま出版社 新宿・矢来町

 木造家屋の密集する江戸の町は、しばしば火事に見舞われた。中心の江戸城が何度も火災に遭って、天下の将軍が焼け出されている。

 幕府が編纂した徳川家の実録『徳川実紀』の寛永十六年(一六三九)八月十一日の項には次のような記事がある。

 〈十一日辰刻(たつのこく)より雨(はなはだ)しくふるに、巳刻(みのこく)ばかり奥の(くりや)より火おこり、忽ちに殿閣門廡(もんぶ)に火うつる。本城ことごとく回禄(かいろく)に及ぶ。たヾし二丸(ならびに)天守、城櫓は(つつが)なし〉

 公式文書だけに難しい文字が並んでいるが、要約すると———十一日の朝八時ころから雨が強く降り、同十時ころ奥の調理場から出火、たちまち御殿や諸門、渡り廊下に火が移った。このため本丸が全焼した。回禄は中国の火の神で、火事を指す。ただ二の丸、天守閣、武器庫は無事だった。台風の季節で、風が強かったのかも知れない。

 時の将軍は三代家光で、安否を気遣った御三家や諸大名がお見舞いに駆けつけている。側近で、もっぱら御用取次に当たったのが大老酒井忠勝(福井県・小浜藩主)。家光は牛込(現・新宿区矢来町)の酒井の下屋敷に息抜きに出かけている。

 上様の御成りを受けて、酒井は下屋敷の周囲に土手を築き、見通しのよい竹矢来を張りめぐらせた。矢来は紫の紐で結ばれ、朱の(ふさ)付きというきらびやかさだったが、寛永十四年には天草四郎のキシリタン一揆が起こっており、警護の武士は抜き身の槍の物々しさだったという。

 酒井は家光好みの屋敷・庭園の造成に余念なく、しばしば家光の来訪があった。これが酒井家の誇りで、下屋敷は塀を設けず竹矢来のままで通したため、矢来町(やらいちょう)の名が生まれた。いま、矢来町周辺には新潮社、旺文社など多くの出版社が集まっていることでも有名である。

(掲載号:02月23日号)