週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

義民 供養の 宗吾殿

 はなし塚のある本法寺から国際通りを隔てた台東区寿三‐一九‐一二に、宗吾(そうご)殿といわれるお堂がひっそり建っている。

 入り口の石の門柱の上に歌舞伎座、両側の柱に明治座と刻んである。周囲の石垣には中村吉右衛門、時蔵、松本幸四郎ら歌舞伎役者の他、作家の久保田万太郎や寄席の名前なども彫り込まれている。

 宗吾とは、佐倉惣五郎(宗五郎)あるいは木内惣五郎と呼ばれた伝説上の江戸時代初期の義民である。宗吾殿にはこの人が祀られている。

 下総(千葉県)佐倉藩領の印旛郡公津(こうづ)村の名主木内惣五郎は、藩主堀田氏の重税に苦しむ領民の代表として江戸に行き、寛永寺参拝の将軍を待ち受けて領民の窮状を直訴した。訴えは取り上げられたが直訴はご法度で、惣五郎は妻子共々処刑された。

 惣五郎伝説のあらましで、直訴した将軍は三代家光、または四代家綱といわれている。ただ、惣五郎は一説に承応二年(一六五三)刑死と伝えられるが、詳しい生没年は不明で、その足跡も分からない。

 だが、この話は広く流布し芝居や講談に脚色された。歌舞伎では嘉永四年(一八五一)江戸・中村座初演の三代目瀬川如皐(じょこう)の『東山桜荘子(そうし)』通称『佐倉義民伝』が、主役の四代目市川小団次の好演で三か月のロングランを記録し、今も時折り上演される。

 また、伝説では悪役の堀田家だが、いつしか惣五郎の供養をするようになり、享和五年(一八〇三)、一族の近江(滋賀県)宮川藩主の堀田家が彼の百五十回忌の法要を下屋敷で行い、宗吾殿を建てた。それが明治になって一般に参拝が許されるようになった、と説明板に記されている。

 その堂は戦災で焼けたが、昭和二十八年、有志が現在の堂を再建した。石垣に刻まれている名前は、その有志の人たちだろう。

(掲載号:03月02日号)