週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
喜久井町 夏目坂 漱石公園
夏目漱石は牛込で生まれ、晩年を牛込で送った。
漱石の談話『僕の昔』に、軽妙な証言がある。
〈僕はこれでも江戸ッ子だよ。しかし大分(だいぶん)江戸ッ子でも幅の利かない山の手だ、牛込の馬場下で生れたのだ。
父親(おやじ)は馬場下町の名主で小兵衛といった。(中略)家の紋は井桁の中に菊の紋だ。今あの邊を喜久井町といふのは、僕の
漱石は慶応三年(一八六七)夏目小兵衛直克(なおかつ)の四男に生まれた。いまの東京メトロ東西線早稲田駅の周辺が新宿区馬場下町、喜久井町である。駅のすぐ南側に名主の名を取った夏目坂があり、「夏目漱石誕生之地」の碑が目に入る。
漱石は『吾輩は猫である』に描かれているように友人や門弟の来訪を歓迎し、温情豊かな座談に定評があった。明治四十年、生地に近い早稲田南町七番地に居を移し、『三四郎』『それから』『門』などを次々と発表した。大正三年に漱石宅を訪ねた新潮社の中根駒十郎が思い出を残している。新潮社は大正二年から矢来町に本拠を構えており、中根は創業者の佐藤義亮の義弟で、近くに住んでいた。
漱石は初対面の挨拶のあと、いきなり「中根君、僕は君の家を知ってるぞ。姓は中根、名は駒十郎、ずいぶん変わっているからなあ」と言った。中根がびっくりすると、朝の散歩の途中に表札を見つけたと言い、ちょっと奥をうかがうようにして声を落とし「僕は中根という姓に関心を持っている」と続けた。
実は漱石夫人の鏡子が、同姓の中根重一(元貴族院書記官長)の娘だった。
大正五年、漱石は胃潰瘍のため五十歳で病没した。旧居の漱石山房跡は新宿区立漱石公園となり、漱石の胸像が置かれている。
(掲載号:03月09日号)
