週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

祖心尼と 山鹿素行 済松寺

 江戸時代前期の兵学者、山鹿素行(やまがそこう)の墓所がある宗参寺(そうさんじ)(新宿区弁天町九)から東北へ歩いて三百メートルほど、外苑東通りの弁天町交差点を挟んで対称的な位置に、済松寺(さいしょうじ)(新宿区榎町七七)がある。

 済松寺は臨済宗京都妙心寺派に属し、開基は三代将軍徳川家光の侍女祖心尼(そしんに)である。祖心尼は、家光の乳母として権勢のあった春日局の姪にあたり、三春(福島県)藩主・町野長門守幸和に嫁したが、夫の死後、春日局の推薦で家光に仕えた。家光は初対面の祖心尼が夢に見た観音そっくりなのに打たれて、禅法を尋ねるようになったという。

 済松寺は祖心尼が家光の意を受けて建てた寺院だけに、かつては八七〇〇坪(二八、七〇〇平方メートル)に及ぶ広大な境内に七堂伽藍が並び、江戸後期の『江戸名所図会』にも鬱蒼と茂る樹林のなかの僧坊の景観が美しく描かれている。深山の趣を伝える禅宗庭園「鳳凰の池」などは今も残り、盛時を偲ばせている。

 寛永二十年(一六四三)春日局が他界したあと祖心尼は大奥を取り締まり、表の大老酒井讃岐守忠勝に対して「奥讃岐(おくさぬき)」と呼ばれたほど。不思議な縁だが、山鹿素行の父、貞以(さだもち)が浪人のあと頼ったのが町野幸和の家だった。

 堀勇雄『山鹿素行』(吉川弘文館・人物叢書)によると、浪々の身となった素行の父は息子の出世に異常な熱意を示したようである。早熟の素行が学問で才能を見せたため、祖心尼をバックに幕府出仕の話がかなり具体化した。しかし、その成功寸前、慶安四年(一六五一)に家光が逝去したため夢は消えたという。

 江戸城の西に接する牛込台地は格好の住宅地で、素行は父母の墓所、宗参寺に葬られた。弁天町の地名は、古くから宗参寺の境内に弁天堂があったため、このあたりの通り名となった。

(掲載号:04月06日号)