週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

討ち入り 安兵衛と 高田馬場

 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは元禄十五年(一七〇二)十二月十四日で三百年も前のことだが、江戸中の話題になったので割合史料が残っている。

 演劇・映画などでは、大石良雄が山鹿流の陣太鼓を打ち、一党が白黒だんだらの羽織で邸内に斬り込む姿がおなじみである。だが、堀勇雄『山鹿素行』(吉川弘文館・人物叢書)には〈山鹿流では陣太鼓のことを 押太鼓 (おしだいこ) という〉とあり、当時の記録にも〈表門にて相図の (かね) を打ち、裏門にて合せ候〉とあるから、太鼓ではなく 銅鑼 (どら) か鉦が使われたとしている。頭巾や羽織も 火消装束 (ひけししょうぞく) の地味な褐色だったようだ。

 興味深いのは、あの堀部安兵衛が書き残した『堀部 武庸 (たけつね) 筆記』(岩波・日本思想大系『近世武家思想』)である。江戸の剣術道場で同門だった高名な学者 細井広沢 (ほそいこうたく) に手渡した貴重な手記で、上方の大石良雄ら同志との文通が克明に記録され、安兵衛が一流の知識人だったことがよくわかる。

 安兵衛が高田馬場で叔父の決闘の助太刀に駆けつけたのは元禄七年二月。当時は中山安兵衛といい、急報を受けて市谷加賀屋敷(新宿区納戸町)から市谷柳町、馬場下町を経て高田馬場まで走ってニュースの主人公になった。浪人の安兵衛に惚れ込んだ赤穂藩の堀部弥兵衛が娘婿に迎えたのはご存知の通りである。

 高田馬場は幕府旗本たちのための弓馬訓練場だった。ここで穴八幡神社(新宿区西早稲田二‐一‐一一)の 流鏑馬 (やぶさめ) 奉納があり、観閲式のようにしばしば将軍が臨席した。

 東京メトロ東西線早稲田駅から早稲田通りを西へJR高田馬場駅に向かうと、早大キャンパス脇のグランド坂と交差する西早稲田三丁目一番の地に、「高田馬場跡」の説明板が出ている。この一番地から一四番地までの通りは直線に近く、往時の馬場の南の (へり) に当たるそうだ。

(掲載号:04月13日号)