週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

永井荷風と 市ヶ谷八幡 外濠の眺め

 永井荷風は大正四年に随筆『 日和下駄 (ひよりげた)  一名 東京散策記』を出版した。そのなかで荷風は、東京が急速に進む近代化の嵐で江戸の風情を失っていくことを惜しみ、市ヶ谷台の外濠付近に残る美観を次のように書いている。

 〈市ヶ谷八幡の桜早くも散って、茶の木稲荷の茶の木の 生垣 (いけがき) 伸び茂る頃、濠端づたひの道すがら、 行手 (ゆくて) に望む牛込小石川の高台かけて、緑 (したた) る新樹の梢に、ゆらゆらと初夏の雲涼し () に動く空を見る時、私は何のいはれもなく山の手のこの (あたり) を中心にして江戸の狂歌が勃興した天明時代の風流を 思起 (おもいおこ) すのである〉

 荷風は、東京に都会美なるものがあるとすれば、それは樹木と水辺に他ならないと繰り返している。そして、外濠近辺の景観を「東京中での最も美しい景色」と絶賛する。荷風は小石川 金富町 (かねとみちょう) (現・文京区春日二丁目)で生まれ、大久保 余丁町 (よちょうまち) (新宿区余丁町)に住みなれた人である。

 市ヶ谷八幡(新宿区市谷八幡町一五)は、江戸城を本拠とした太田道灌が文明十年(一四七八)に鎌倉鶴岡八幡を勧請したのが始まりである。道灌は鶴岡にあやかって 亀岡 (かめがおか) 八幡と称し、市谷御門内の番町に祀ったが、徳川時代の寛永年間(一六二四−四四)に現在地に移った。茶の木稲荷は同社境内の摂社で、眼病に霊験があり茶絶ちの祈願で江戸っ子に親しまれてきた。

 濠端から五十段の石段を登ると、文化元年(一八〇四)建立の銅の鳥居(新宿区指定文化財)が厳かな緑青色で聳えている。市ヶ谷八幡には太田道灌が奉納したと伝えられる竹製の軍配団扇(区登録文化財)も秘蔵されている。

 残念なことだが、濠端に沿ってビルが建ち並んでいるため、荷風が絶賛した外濠は、銅の鳥居から石階と参道を見下ろして、わずかに望めるだけである。

(掲載号:05月18日号)