週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

浅草へ 移った 天文台

 正月行事のドンド焼きや、夏祭りの勇壮な千貫御輿で知られる浅草の鳥越神社前の蔵前橋通りと、江戸通りとの交差点南西角の植え込みに「天文台跡」の標識が建っている。天明二年(一七八二)、江戸幕府の天文台は牛込藁店(わらだな)(現新宿区袋町)からここに移された。

 「六月、天文屋敷、牛込藁店より浅草へ移る(牛込の前は神田佐久間町の北にありしなり)」と『武江年表』にある。一般には「司天(してん)台」とか「浅草天文台」といわれていたこの施設の正式名は「頒暦所(はんれきどころ)御用屋敷」といった。幕末の切絵図にも、今はなくなった鳥越川左岸の一画にその名で記されている。

 本来は暦を作る役所で、天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設だった。屋敷内には、九十三メートル余、高さ九メートル余の築山の上に五・五メートル四方の天文台が築かれていたという。

 葛飾北斎の「富嶽百景」にこの天文台を題材とした「鳥越の不二」がある。富士山を背景に、手前に天体の位置を観測する器具の渾天儀(こんてんぎ)を据えた天文台が描かれている。幕府天文方の高橋至時(よしとき)は、ここでの観測などをもとに寛政九年(一七九七)、いわゆる寛政暦を作成した。

 至時の死後、後を継いだ息子の景保は幕府へ進言して文化八年(一八一一)、天文方内に「蕃書和解(わげ)御用」という外国語の翻訳部署を設けた。これは後に蕃所調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校などと名を変えた東京大学の前身の一つである。

 幕府の天文台は天保十三年(一八四二)、九段坂上(現千代田区九段北)にも設けられたが、維新後の明治二年、共に廃止となった。現浅草橋三丁目付近の浅草天文台跡は広い空き地になって、しばらくの間「天文原(てんもんがはら)」と呼ばれたという。

(掲載号:06月01日号)