週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

御徒町 牛込に 下谷に

 明治四年(一八七一)生まれの作家、田山花袋(たやまかたい)はその回想記『東京の三十年』で、明治の東京の社会や風俗を精細に描き出した。父は上州館林(群馬県館林市)の旧藩士だが、明治十年の西南戦争に警視庁巡査として参加、戦死したため一家は生計に苦しんだ。

 十一歳の花袋は本屋の丁稚(でっち)奉公も経験しているが、実家は牛込、市谷の借家を転々とする生活だったので、文中には当時の「山の手の空気」が生き生きと伝えられている。

 〈私は初めに納戸町(なんどまち)、それから甲良町(こうらちょう)、それから喜久井町(きくいちょう)原町(はらまち)という風に移って住んだ〉(岩波文庫)とあるが、新宿区内にこれらの町名がそのままなのは懐かしい。

 〈中町(なかちょう)の道——そこは納戸町に住んでいる時分によく通った。北町(きたまち)南町(みなみちょう)、中町、こう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かった。他の通りに比べて、邸の大きなのがあったり、栽込(うえこみ)綺麗(きれい)なのがあったりした。そこからは、富士の積雪が冬は目さめるばかりに美しく眺められた〉

 北町、中町、南町、いずれも現存する。江戸時代からの町で、俗称は牛込御徒町(おかちまち)。下谷御徒町と同様に、御徒(おかち)(幕府の歩兵部隊)の組屋敷があった。下谷の御徒町はJRの駅名で残ったが、牛込は明治五年に御徒の名を省き、現在の新宿区北町(きたまち)中町(なかちょう)南町(みなみちょう)に引き継がれたのである。

 牛込、市谷は江戸城外濠の西に接する要地だったから、大名屋敷や幕臣の居住地が多かった。甲良町は幕府大工頭(だいくがしら)の甲良和解(わげ)ぶぜん豊前の屋敷地という。また、納戸町も幕府の御納戸(おなんど)役同心の居住地だった。

 御納戸役は、現代の出納役で、金銀・衣服・調度の出納を担当した。御納戸役のうち金品や調度の払い出しを担当したのが払い方である。納戸町の隣の払方町(はらいかたまち)は、払い方の“官舎”だった。

(掲載号:06月08日号)