週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

奔放の狂歌 精勤の能吏 大田蜀山人

 江戸時代後期の有名な文人である大田南畝(なんぽ)は、寛延二年(一七四九)三月三日、牛込の中御徒町(なかおかちまち)(現・新宿区中町(なかちょう))に生まれた。幕府の御徒組(おかちぐみ)に属する下級武士。生地は本所、下谷、牛込などにあった御徒組の組屋敷の一つである。

 野口武彦『蜀山残雨(しょくさんざんう)』(新潮社)は、大田南畝とその時代をみごとに描いた評伝だが、その生家を宅地百三十坪、建坪二十坪ほどと推測している。職務の説明も平明である。

 〈徒士衆(かちしゅう)は、将軍が御成(おなり)で外出する時には羽織・股引・草鞋(わらじ)がけで道筋の先払いをする。行列の先方を駈足で走り、白扇を開いてシタニシタニと制止の声を掛ける〉

 徒士衆はいわゆる御家人である。「天下の直参」だが、旗本と御家人では身分が違った。将軍に拝謁することを「御目見(おめみえ)」といったが、旗本には御目見の資格があり、御家人にはその資格がない。だから旗本は「御目見以上」、御家人は「御目見以下」と区別された。

 南畝は弱冠十八歳で、平賀源内に認められて狂詩文『寝惚先生文集(ねけぼせんせいぶんしゅう)』を刊行し、さらに四方赤良(よものあから)の狂名で狂歌文芸に最盛時を築いた。ところが、寛政改革の松平定信時代になると一転して幕吏としての実務に精励する。新制度の官吏登用試験にも挑戦して「御目見以下」の階級で、みごとトップ合格を果たす。

 〈寝惚先生とも四方赤良とも別れを告げた南畝が新たに名乗ったのは「蜀山人(しょくさんじん)」という号であった〉(『蜀山残雨』)

 南畝は、徒士衆という軽輩から大阪銅座(幕府の銅取引統制機構)の支配勘定に抜擢された。その号は、銅の異名の「蜀山居士」から採った。

 文政六年(一八二三)数え七十五歳で世を去った南畝に対する評価はさまざまだが、同書はその生涯を温かい目で見つめ、南畝の生き方に、現代の「文化人」の原型を見ているのが興味深い。

(掲載号:06月22日号)