週刊新潮「タワークレーン」
簟笥町 細工町 二十騎町
田安侯が狂歌で有名な大田蜀山人(を自邸に招いた。田安侯といえば徳川御三卿の筆頭で、お屋敷は九段の高台。いまの皇居北の丸公園内、日本武道館のあたりである。即吟を求められた蜀山人の一首。
雪月花(きつと受合申候( 仍(てくだんの上の絶景
保証の証文は「仍て件(の如し」で締めくくる。それに九段を懸けて、当意即妙、九段のお屋敷の絶景は雪月花いずれの季節も最高と受け合ってみせた。さすが蜀山人と殿様もご満悦だったという。
晩年に自薦の『蜀山百首』夏の部に、こんなものもある。
ほとゝぎす鳴(つるあとにあきれたる後徳大寺(の有明の顔
百人一首の「ほとゝぎす鳴きつるかたを眺むればただ有明の月ぞ残れる」(御徳大寺実定)の傑作パロディである。
こういう一首もある。
人なみに窓の蛍はあつめても しりからもゆる火をいかにせん
蛍の光なら高尚だが、それをたちまち俗世間の煩悩に置き換えて、人を唸らせる。
江戸の狂歌は明和六年(1769)ころ、四谷の唐衣橘州((本名は小島源之助、田安家家臣)の家に平秩東作((内藤新宿の煙草屋)四方赤良((蜀山人)らが集まったのが始まりだった。幕臣の“社宅”があった四谷、牛込が江戸文芸の温床になったのである。
簟笥町(は幕府の武器、武具を管理した御簟笥同心(の拝領地、細工町(は御細工同心の拝領地、二十騎(町は騎馬のお先手組与力(二組(各組十騎)の屋敷町だ。納戸町(や払方町(も同じように御納戸同心や払方同心など幕臣の組屋敷があったところ。江戸の風を感じる町名が、新宿区の牛込台に今も数多く残っている。
簟笥は町人の日用品にもなっていたから、こんな川柳もある。<馬も引出す牛込のたんす町>。牛込に馬もいると洒落ているのである。
(掲載号:06月29日号)