週刊新潮「タワークレーン」
医学館 籾蔵 七分積金
明和二年(一七六五)、幕府の奥医師 多紀 元孝は医師教育のため、神田川左岸の神田佐久間町に私塾「 躋壽 ( 館」を開設した。『武江年表』同年の項に「十二月、神田佐久間町に医学館建つ(多紀氏基立)」とあるが、医学館の名は寛政三年(一七九一)、躋壽館が官立になったときに改称されたものである。
文化三年(一八〇六)三月、二度目の火事に遭った翌月に北東の 向柳原 ( に移転した。向柳原は神田川下流の南岸沿いに柳が植えられてそこを柳原といったのに対する北岸の通称だった。明治になって浅草向柳原一、二丁目ができたが、昭和三十九年、浅草橋に編入された。
幕末の切絵図を見ると、神田川に架かる新シ橋から北に延びる道に「此辺一圓向柳原ト里俗ニ云」と記されていて、その東の、ほぼ矩形の区画に「醫学館」とある。新シ橋は現在の美倉橋で、北に延びる道は清洲橋通りに当たる。今、同通りと浅草橋四、五丁目間の道路との十字路を東に折れた右手のビルの前に「医学館跡」の標識が建っている。
医学館の南隣には、 籾蔵 ( があった。老中松平定信が推進した寛政の改革の施策の一つで、町金取立会所と共に建てられた米の備蓄庫である。幕府が編纂した『御府内備考』に、その役割が記されている。「籾蔵は醫学館の南に在り。町方非常御救の爲として寛政四年新に建させらる。・・・・・・當所御構内に御役所ありて、町金の取立及御貸金の進退をなし、且困窮者への扶助米
をも施し與へらる」
町金とは「 七分積金 ( 」といわれるもので、江戸の町々に町費を倹約してできた金の七分を窮民救済のために積み立てさせる制度である。幕府も補助金を出した。この制度は幕末まで続き、維新後、基金は東京市の財源として活用された。
(掲載号:07月20日号)