週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

福井藩の 名残は 失われた

JR浅草橋駅の北側に、かつて徳川家康の次男結城秀康を藩祖とする越前福井藩ゆかりの(浅草)福井町という町があった。

元和四年(一六一八)以来浅草御門外にあった福井藩の上屋敷は、享保十年(一七二五)、幕府に公収されて町屋・町人の居住区になった。新町屋は奥州街道のすぐ西側で、街道は浅草観音や遊郭の新吉原に向かう道でもあり、年々商家や民家が増えていった。

だが町屋となっても町名はなく、跡地は三区画に分けて「中場所」「北場所」「西場所」と呼ばれていた。このため享保十五年、土地の有力者が協議して「丸岡町」「銀杏町」「福井町」という三つの町名候補を持って町年寄の奈良屋市右衛門に伺いを立てた結果、復井町と決まった。

当然、福井藩邸跡だったための命名である。丸岡町の根拠は分らないが、銀杏町は今も浅草橋駅のすぐ北に鎮座している銀杏岡八幡神社にちなんだものだろう。

福井町は中場所が一丁目、北場所が二丁目、西場所が三丁目と定められた。この分け方はちょっと珍しいもので、一丁目を真ん中に、その北側が二丁目、西側が三丁目で、二丁目と三丁目は隣接していなかった。

明治以降もこれは変わらなかったばかりか、同四年、旧大名の華族佐竹、松平両家の宅地が福井町に隣接しているので新福井町と名付けられた。

しかし昭和九年、新しく浅草橋一・ニ・三丁目ができたとき、福井町一・二丁目はそこに組み入れられて消滅した。福井町は三丁目だけが残った。

昭和三十九年一月一日、その三丁目も浅草橋一丁目となり、新福井町もなくなった。福井の名はかろうじて中学校の名に残ったが、それも平成三年三月、過疎のため閉校となり、福井藩邸の名残は全く失われた。

(掲載号:08月03日号)