週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
左衛門 平右衛門 両町の由来
神田川に架かる浅草橋の一つ上流の橋を左衛門橋といい、ここから北に延びる道路には「左衛門橋通り」の名が付いている。
嘉永三年(一八五〇)刊行の切絵図を見ると、現在の橋付近の神田川左岸に「コノ川岸ヲ里俗ニ左エ門川岸と云」とあって、すぐ北に「酒井左エ門尉」と記された屋敷がある。出羽(山形県)鶴岡藩十四万石酒井家の下屋敷で、同家は代々左衛門尉を称した。川岸名はこれに由来している。
明治五年、屋敷は民有地となって「新平右衛門町」と名づけられた。東側に古くから平右衛門町という町があったからである。
平右衛門町の歴史は『御府内備考』によると、江戸時代初期に始まる。町の草創者で町名の元になった平右衛門は遠州(静岡県)浜松の人で、天正十八年(一五九〇)家康に従って江戸入りし、後の浅草御門の近くに住居を定めた。
元和二年(一六一六)、浅草寺参詣の家康がこの地に立ち寄った。彼は挨拶に出た平右衛門にここの名主となって町屋を開き、町名を平右衛門町とするようにと命じた。
この町は奥州街道、現在の江戸通りの東西にわたっていた。そのためか、街道の西側を上平右衛門町、東を下平右衛門町と俗にいうようになった。しかし、正式には平右衛門町で、上・下平右衛門町が正式町名になったのは明治初年のことだった。
以来、上・下平右衛門町と新平右衛門町があったわけだが、新平右衛門町は明治二十三年、改めて元の屋敷地の所有者にちなんで左衛門町と改められた。
だが、こうした由来のある町名も昭和九年に柳橋一・二丁目、浅草橋一・二・三丁目ができたとき、まず下平右衛門町がなくなり、残りの二町も同三十九年、浅草橋に編入されてしまった。
(掲載号:08月17日・24日合併号)
