週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

内職から 生まれた 躑躅名所

躑躅(つつじ)。難しい字だが、もとは「行きつ戻りつ」の意味で、山躑躅の枝葉を食べた羊が歩行困難になったことから出ているという。どれほど根拠があるか明らかではないが、漢字の好きな日本でも愛用されている。

太平の文化が爛熟した江戸時代には、珍種の植木や花を争う園芸ブームが発生したらしい。あいついで出版された園芸書は学術的にも一流といわれるが、有名な『花壇地錦抄(かだんじきんしょう)』などを著した染井(東京・豊島区)の庭師・伊藤伊兵衛は伊賀藤堂藩のお庭番の出身だった。園芸の世界でも、教養と時間の余裕のある武士の活躍が目立っている。

学識のある武士が新種の開発に熱中していたから花の命名にも漢語が多くなった。躑躅で有名だったのは大久保(新宿区百人町(ひゃくにんちょう)付近)で、『江戸名所図会』には「大久保の映山紅(きりしま)」とあり、

<満庭(くれない)(そそ)ぐが如く夕日(ゆうひ)に映じて錦繍(きんしゅう)の林をなす>

と紹介している。なんとなく映山紅と名づけた気持ちが伝わってくるようである。

JR中央線・大久保駅の北口を出ると、電車のガード下に描かれた大きな壁画が目に入る。「江戸幕府鉄砲組百人隊と大久保つつじ」とあり、火縄銃を斉射する武士の一隊を深紅の躑躅が縁どっている。百人町という風変わりな地名が百人隊の居住地に由来すること、その百人隊の武士たちが躑躅の名所を育てたことが要領よく説明してある。

中央線の前身である甲武鉄道が開通したのは明治二十二年、大久保駅の開設は明治二十八年。地元の有志が躑躅の復活を図り、明治・大正の頃も大いに賑わったが、市街地化が進んだため多くは日比谷公園や群馬県館林の茂林寺などに移植されていった。こんな歴史を背景に新宿区は昭和四十七年、躑躅を区の花に指定している。

(掲載号:08月31日号)