週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

校庭に 名園の 名残が

 JR浅草駅の北側にあった越前福井藩の上屋敷が享保十年(一七二五)、幕府に公収されて町屋・町人の居住区になり、やがて福井町となったが、その西側一帯は幕末まで武家地だった。今もその称号「左衛門尉」が橋名や通り名になっている出羽鶴岡(山形県)藩主酒井家など大名の屋敷も多かった。

 嘉永三年(一八五〇)刊行の切絵図には、酒井家の北に出羽久保田(秋田県)藩主の佐竹家、その西側には道を隔てて越後(新潟県)与板藩主の井伊家や医学館などが並んでいる。さらにこれらの屋敷の北の、南北に長いほぼ長方形の区画に「松浦壱岐守」と記されている。

 備前平戸(長崎県)藩主・松浦家の屋敷である。松浦家といえば、随筆『甲子夜話』の著者で藩政改革にも成果を上げた江戸後期の藩主・静山(一七六〇-一八四一)が有名だが、その江戸の屋敷は江戸初期の茶人、造園家として有名な小堀遠州が作庭したといわれる「蓬莱(ほうらい)園」と言う庭園があることで知られていた。

 鳥越川から水を引いた大池を中心にして岡や多くの樹木、東屋、灯籠などが巧みに配置された二千六百坪もの庭園で、明治以降も東都の名園の一つとして名を馳せていた。しかし、大正十二年九月一日の関東大震災でほぼ壊滅してしまった。

 ただ、今も浅草橋五丁目の都立忍岡高校の校庭の片隅に小さな池があって、傍らに都の天然記念物に指定されている大イチョウがそびえている庭がある。蓬莱園の名残といわれ、道路から垣間見ることができる。

 松浦家の屋敷は、同高校や隣接する柳北公園、区立柳北小学校一帯に広がっていた。現在、忍岡高校と柳北公園との境に「蓬莱園跡」の説明版が建っている。

(掲載号:09月14日号)