週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

柳橋は 川口 出口の橋

 春の夜や女見返る柳橋

 贅沢な人の涼みや柳橋

 共に子規の句で、「柳橋」と聞くと、何か粋で色っぽい感じを受ける。語感もあるが、花柳界として一世を風靡した歴史があるからだろう。

 その本体は、よく知られているように神田川最下流の橋である。元禄十一年(一六九八)の初架橋で、『江戸名所図会』の「浅草橋」の項に「この東の川口にかゝるを柳橋と(なづ)く。柳原堤の末にある故に名とするとぞ」とある。

 今の万世橋の前身ともいえる筋違(すじかい)橋から下流の神田川右岸の堤に享保年間(一七一六-三八)に柳が植樹され、柳原といったのに由来するというもので、なかなか妥当な説である。だが、異説もある。橋の南に幕府の矢の倉があったので矢の倉橋といったのが矢の()橋となり、柳橋になった。橋のたもとに柳の木があった、などとするものである。

 ただ、最初は柳橋ではなく「川口出口の橋」といったと『御府内備考』などにある。神田川が隅田川に流れ込む地点の橋ということで、味もそっけもない感じの名である。「柳橋」の命名がいつだったかは分らないが、少なくとも『江戸名所図会』が完成した天保七年(一八三六)当時は柳橋と呼ばれていたに違いない。そして橋北に花街ができたのは、弘化年間(一八四四-四八)のことといわれる。以来、昭和まで全盛を誇ることになる。同九年には(浅草)柳橋の町名も誕生した。

 今、花街の影は薄くなったが、昭和四年、関東大震災からの復興事業で完成したタイド・アーチ式の優美な柳橋は一見の価値がある。欄干には花町にちなむ、かんざしが飾られている。南のたもとには冒頭の句や、笠をかぶった武士と芸者が柳がかぶさる橋上をすれ違う絵が刻まれたレリーフがはめ込まれた自然石の碑などがある。

(掲載号:10月05日号)