週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

柳橋 篠塚稲荷 人形町

 神田川最下流の橋・柳橋にちなむ町名柳橋が誕生したのは、昭和九年だった。下平右衛門町、新森田町、新片町など幾つもの町を整理統合したものだが、この地に発展した花街の名称としての柳橋は、幕末から広く知られていた。

 町名柳橋は昭和三十九年、浅草橋の一部を編入して現行の町域となった。東は隅田川、西は江戸通り、南は神田川、北は榊神社前の通りに囲まれた地域で、南半分が一丁目、北が二丁目になる。

 花街としての影は薄くなったが、一丁目の神田川岸には船宿の屋形船が停泊していてそれなりの情緒を漂わせている。その一丁目には、篠塚稲荷が鎮座している。料理屋の名前が刻まれている玉垣に囲まれていて、往年の繁盛ぶりが偲ばれる。

 「当地の旧社なり。(往古この所を茅原の里と云うよし社伝に云へり)昔新田の家臣篠塚伊賀守当社を信仰し、晩に入道して社の側に庵を結びて住す」

 『江戸名所図会』の記述で、現在の社殿は比較的新しいが創建は江戸時代以前と推定されるお稲荷さんである。初めは浅草橋の近くにあったが、享保年間(一七一六-三六)、現在地に移った。

 柳橋の江戸通り沿いで目立つのは人形屋である。三月、五月の節句前には特に賑わいを見せる。江戸時代の雛人形や武者人形の市といえば、現在の三越本店前の通りの神田寄りにあった日本橋十軒店(じつけんだな)が有名だが、他に尾張町(現銀座)、浅草茅町、池の端仲町、麹町、駒込などにも立った。

 浅草茅町は、現在のJR浅草橋駅前の江戸通りの両側に細長く南北に延びていた町である。『江戸名所図会』や『御府内備考』などにもその市のことが記されている。今の柳橋や浅草橋の人形街は、その伝統を引いているといえるだろう。

(掲載号:10月12日号)