週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

道灌伝説 山吹の里 今いずこ

 太田道灌(おおたどうかん)は室町中期の武将で、長禄元年(一四五七)江戸城を本拠として、その後の発展の基礎をつくった。

 上杉定正の家臣で、数々の合戦に勝利を収めたが、知略に優れていたのを(そね)まれて、文明十八年(一四八六)主君の定正に謀殺された。悲運の名将だったことから後世に多くの逸話を残している。

 寛政六年(一四六五)京に上った道灌は、室町幕府八代将軍の足利義政に拝謁する。義政には飼い猿がいて見知らぬ客があると引っかくなどの悪戯をした。これを聞いた道灌は猿の飼育係を買収して猿を借り受け、出仕の装束を付けると飛びかかる猿を鞭で思い切り叩き続けた。

 出仕の当日、義政は猿を道灌の通り道につないでおいたが、猿は道灌が近付くと恐れ入って頭を下げてしまった。道灌が悠々と衣紋の襟を正して通り過ぎたので、「タダ者ではない」と義政が感じ入ったという話が、江戸時代の随筆『常山紀談(じょうざんきだん)』に載っている。

  江戸城の環境を簡潔に表現した道灌の和歌がある。

     我が(いお)は松原続き海近く 富士の高嶺(たかね)軒端(のきば)にぞ見る

 この一首、江戸城内での作とも、また、京都で将軍義政の下問に答えた時の詠とも伝えられるが、道灌の歌才を十分に窺うことができる。

 有名なのは道灌が武蔵野で雨に遭い、雨宿りを願った農家で、若い娘から山吹の一枝を差し出されて戸惑ったという逸話である。その心は、<七重八重花は咲けども山吹の()の一つだになきぞ悲しき>の古歌のなかの「実の(蓑)」に懸けて、貸す蓑がないことを嘆いたものとわかり、それから歌道に精進したというのだが、後世の作り話らしい。

 『江戸名所図会』には、山吹の里の伝承地が<高田の馬場より北の方の民家の辺>とあり、新宿区や豊島区に今も伝説が残っている。

(掲載号:10月19日号)