週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

道灌と 紅皿と 大聖院

 東京・新宿の超高層ビル群の足もとに、緑豊かな新宿中央公園がある。その北よりの一画に、太田道灌の像がある。おなじみの狩装束(かりしょうぞく)の道灌に、典雅な乙女がひざまずき、右手に持った扇に一枝の山吹を捧げ持っている。

 かたわらの説明版には「太田道灌が武蔵野で狩をした時の伝説の一情景」とあるが、この像が「久遠(くおん)の像」と名づけられて山吹の植え込みに囲まれているところから見れば、江戸東京の歴史に欠かせない一場面とわかる。

 道灌は優れた知略が災いして、文明十八年(一四八六)主君の上杉定正に謀殺された。だが、武蔵野の全域に武勲を轟かした武将だけに、山吹の里の伝承は東京都内や神奈川県、埼玉県などの各地に残る。

 伝説も時代とともにふくらんで、江戸時代には彩り鮮やかな物語に発展した———。

 時代は戦乱の続く室町の頃。ある貴人が応仁の乱(一四六七-七七)で京を逃れて武蔵国豊島郡高田村(現・新宿区西早稲田、豊島区高田付近)に移り住んだ。妻に先だたれ娘一人を連れていたが、武蔵で後妻を得て、妹が出来た。後妻は妹を大事にしたが、姉は美貌で才知に富み、歌道に(くわ)しい。一方、妹は姿も才も劣ったので、土地の人は姉を紅皿(べにざら)、妹を欠皿(かけざら)と呼んだ。

 典型的な継子(ままこ)説話で、継母は姉には何も与えない。ここに雨宿りの道灌公が飛び込むというわけ。困った紅皿は、

 七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき

 と、古歌の心を道灌に伝えた。道灌は紅皿を城に招いて歌の友とし、紅皿は道灌亡きあと出家したという悲話である。

 新宿文化センターに程近い大聖院(だいしよういん)(新宿区新宿六-二一-一一)の境内には、紅皿の碑と伝える古い板碑が祀られており、寺の脇の坂道には山吹坂の名がある。

(掲載号:10月26日号)