週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

大久保の 西向天神 鎌倉古道

永井荷風は著書『 日和下駄(ひよりげた) 』の「夕陽」の項に次のように書いている。
<東都の西郊目黒に夕日(ゆうひ)岡 ( おか といふがあり、大久保に西向天神(にしむきてんじん)といふがある。 (とも)に夕日の美しさを見るがために人の知る所となつた>

 夕日ヶ岡は今の目黒区下目黒、目黒川に架かる太鼓橋付近で、歌川広重の『江戸名所百景』のなかにも「目黒太鼓橋の夕日の岡」がある。また、西向天神は新宿区新宿六-二一-一にある 大窪天満宮(おおくぼてんまんぐう)のことで、いずれも西側が低くなる台地のため、江戸の人たちは武蔵野に沈む夕日を眺める名所としていた。

 荷風が『日和下駄』を出版したのは大正四年。江戸の風情は消え去ったと嘆きつつも、わずかに東京に残るものとして夕陽の美と富士山の遠景を語り続けているのである。

 大窪天満宮については、『江戸名所図会』も 長谷川雪旦 ( はせがわせつたん の挿絵をつけて紹介しているので、江戸時代後期の姿がよくわかる。西向天神と呼ばれるのは社殿が西を向いているためで、鎌倉時代に京都 栂尾(とがのお)の名僧、 明恵(みょうえ)上人が開創、室町時代には太田道灌も田地を寄進しているという。

 雪旦の挿絵は、豊かな樹林に包まれた社殿、茅葺の拝殿に詣でる親子、神社の前を流れる川に釣糸を垂れる人、稲穂の揺れる田では秋の収穫と、絵巻的な田園風景である。

 川に沿って古道があった。これが鎌倉街道で、豊島区雑司が谷から南下して西向天神下を通り新宿二丁目の太宗寺へと要点を結んでいた。西向天神のすぐ北側に並んでいる 大聖院 ( だいしょういん には、太田道灌にまつわる山吹伝説で有名な紅皿の碑が祀られている。

 大久保の地名の由来は、小田原北条氏に属した大久保氏の領地だった、など諸説があるが、川沿いの低地で、大きな窪地だったためという説が有力である。

(掲載号:11月16日号)