週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
鷹狩を 好んだ 家康・家光
飼い馴らした鷹を放して野鳥を捕まえる鷹狩はアジアの遊牧民の間で行われ、日本には朝鮮半島を経由して5世紀前半の仁徳天皇の時代に伝来した、といわれている。その真偽はともかく、日本での歴史も長く、古くは天皇や公家も楽しんだ。
時代が下るにつれ武士の間で盛んに行われるようになったが、戦国時代に入って衰微した。実戦に追われて、お遊びに近い鷹狩などをする余裕がなかったのだろう。
その中で、徳川家康だけは若いころから鷹狩を好んだ。後に天下人になってからも、江戸や駿府周辺で盛んにこれを行った。
「おほよそ鷹狩は遊娯の為のみにあらず。遠く郊外に出て下民の疾苦、士風を察するはいふまでもなし。筋骨勞動し手足を輕捷ならしめ、風寒炎厚をもいとはず奔走するにより、をのづから病など起ることなし」
『徳川実紀』の「東照宮御実紀付録」に記されている家康が近臣に語ったという鷹狩の効能である。この家康を敬愛してやまなかったのが3代将軍の家光で、彼も盛んに鷹狩を行い、目黒・品川方面へしばしば出かけたことが『徳川実紀』に記録されている。
寛永10年(1633)、目黒村での鷹狩のときである。家光が特に可愛がっていた鷹が行方不明になった。ご機嫌斜めの家光を見た立ち寄り先の目黒不動・龍泉寺住職実栄は、鷹が帰ってくるよう祈りを捧げた。間もなく、どこからともなく飛んできた愛玩の鷹が寺の松に止まった。
大喜びの家蜜は荒廃していた同寺の修理を命じ、新しい堂塔も寄進して、ここを目黒方面への鷹狩のときの休憩所にした。また、鷹が止まった松は「鷹居 の松」と名付けられた。今、同寺男坂の下に「鷹居松」という朱字の標石が立っている。
時代が下るにつれ武士の間で盛んに行われるようになったが、戦国時代に入って衰微した。実戦に追われて、お遊びに近い鷹狩などをする余裕がなかったのだろう。
その中で、徳川家康だけは若いころから鷹狩を好んだ。後に天下人になってからも、江戸や駿府周辺で盛んにこれを行った。
「おほよそ鷹狩は遊娯の為のみにあらず。遠く郊外に出て下民の疾苦、士風を察するはいふまでもなし。筋骨勞動し手足を輕捷ならしめ、風寒炎厚をもいとはず奔走するにより、をのづから病など起ることなし」
『徳川実紀』の「東照宮御実紀付録」に記されている家康が近臣に語ったという鷹狩の効能である。この家康を敬愛してやまなかったのが3代将軍の家光で、彼も盛んに鷹狩を行い、目黒・品川方面へしばしば出かけたことが『徳川実紀』に記録されている。
寛永10年(1633)、目黒村での鷹狩のときである。家光が特に可愛がっていた鷹が行方不明になった。ご機嫌斜めの家光を見た立ち寄り先の目黒不動・龍泉寺住職実栄は、鷹が帰ってくるよう祈りを捧げた。間もなく、どこからともなく飛んできた愛玩の鷹が寺の松に止まった。
大喜びの家蜜は荒廃していた同寺の修理を命じ、新しい堂塔も寄進して、ここを目黒方面への鷹狩のときの休憩所にした。また、鷹が止まった松は「
(掲載号:01月20日号)
