週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
吉宗 鷹狩を 再興
鷹狩や此の田に殿のお足跡
江戸中期の俳人で、尾張藩の重臣でもあった横井也有の句である。徳川家康、家光が好んだ鷹狩は、諸大名の間にも流行した。だが5代将軍綱吉のとき、生類憐みの令で鷹狩は禁止されてしまった。
これを再興したのが、8代将軍吉宗である。『徳川実紀』によると、彼は将軍就任早々の享保元年(1716)、鷹匠や鳥見など鷹狩に必要な役を復活させている。鳥見とは将軍の鷹狩の場所・鷹場を管理する役である。
「こたび古制に復し、鳥見の職命ぜらる。よて鳥見の者等つねに近郊を巡り、農民に諸事指揮すべしと命ぜらる」
同書の享保元年9月の記述で、同12月には「御鷹をすへて、其職のもの道途を往還する時、路人下馬するに及ばず。たゞ道をひらきすべし。挟路に行逢ときは片寄べし。車、小荷駄は、すこしひかへて通すべし。されどほど遠き所は、さくるにも及ばずとなり」というきめの細かいお触れを出している。
こうして吉宗は翌2年5月両国橋から乗船して亀戸や隅田川筋で初めて鷹狩を行った。以来、彼は江戸近郊の鷹場へしばしば出かけるようになる。
鷹場は江戸の中心から5里、約20kmの範囲一円6箇所に設けられ「江戸廻り六筋御鷹場」といったが、その1つ目黒筋は現在の目黒区を中心に港、渋谷、品川、世田谷に及ぶ地域で、その広さは16万坪もあった。目黒筋では鶉などが多く生息した駒場野、鴨が多数飛来した碑文谷池の周辺が吉宗のお気に入りだったようである。
今、東横線学芸大学駅周辺の地名・鷹番は、元は駅の東から目黒通りに至る一帯の字名だった。名の由来は目黒筋の鷹場の監視をする番所・鷹番が置かれていたからとする説が有力である。
(掲載号:01月27日号)
