週刊誌コラム

週刊新潮「タワークレーン」

浮世絵師 喜多川歌麿 専光寺に

 <浮世絵師中の浮世絵師>

 浅野秀剛解説『喜多川歌麿』(新潮日本美術文庫)は、そのあと次のように続けている。
<キャバレーの店名などに「歌麿」という名が多い(多かった?)のも、歌麿の絵のもつ、華やかで、いんび淫靡で、どこか哀しいイメージによるもので、これが「写楽」や「北斎」や「国芳」だと様にならない>

 「難波屋(なにわや) おきた」や「ビードロを吹く女」など、ういういしくて、ものがなしい美女を思い浮かべながら共感する読者は多いに違いない。

 浮世絵師の伝記を集めた『 浮世絵(うきよえ)類考( るいこう)』は、 大田(おおた)南畝(なんぽ)が編纂を手がけ、享和2年(1802)に成立したという。その歌麿の項には、こうある。
<今 弁慶橋(べんけいばし)に住居す。千代男女 風俗絵(ふうぞくえ)種々工夫して常時なら双ぶ方なし。名人>

 弁慶橋はいまの千代田区岩本町1丁目あたりだが、歌麿の高名ぶりがよくわかる。

 しかし、2千点以上にのぼる作品が残りながら、歌麿の生涯については不明なところが多い。たとえば、いつ、どこで生まれたかもはっきりしない。ほぼ宝暦(1751-64)中期ころの生まれで、出生地も江戸・川越・京都など諸説あるが、江戸説が有力と、浅野氏は推定している。

 寛政2年(1790)に歌麿は近親の女性を、浅草の専光寺に葬っている。戒名は残るが、母親か妻かわからない。 大首絵(おおくびえ)と呼ばれる美女の半身像で名声を確立した全盛期である。それから10数年、風俗取締りが強化され、歌麿も 手鎖(てぐさり)の刑を受け、文化3年(1806)9月に世を去る。寺は同じ専光寺だった。

 専光寺は浄土宗、江戸時代初期に品川で開かれた古刹で、歌麿の時代には浅草の本願寺の西にあった。関東大震災で被災、昭和2年に世田谷区北烏山4-28-1に移転した。歌麿の墓は、東京都旧跡に指定されている。

(掲載号:02月03日号)