週刊誌コラム
週刊新潮「タワークレーン」
目黒の 狩りの 獲物は
鷹狩りを復活させた徳川8代将軍吉宗は、目黒辺りの狩りでどんな獲物を得ていたのだろう。『江戸名所図会』は駒場野について「この地の官林は、享保の初め御狩場に定めさせたりとなり」と、吉宗の治世の初期に将軍の鷹狩りの場になったことを記し、ここは雲雀・鶉・雉・兎の類が多いとしている。
『徳川実紀』によると、この駒場野へ彼は将軍就任2年後の享保3年(1718)10月に初めて出かけている。
「廿七日はじめて駒場野に御出ありて追鳥狩を催し給ふ。……御みづから騎士歩卒の進退を指揮し給ひ、また鶉をもかり得給ふ」
享保6年9月には「廿三日再び駒場野に御狩あり」とあって「御馬上にて、御みづから鶉をからせ給ふ」と記されている。同12年10月にも「十一日駒場野に鶉狩あり」とあり、駒場野ではもっぱら鶉を獲物としていたようだ。
だが、広大な原野の駒場野には獣もすんでいた。享保11年4月に「十三日大納言殿駒場野にならせ給ひ、鹿をからせ給ふ」とあって、吉宗の長男で後の9代将軍家重が鹿狩りを行い、3頭の獲物を得ている。このときは鷹狩りではなく、勢子が追い出す鹿を弓や鉄砲で仕留めたのだろう。
吉宗も鶉ばかり狙っていたわけではない。同14年3月11日には「此日目黒の邊に御狩りあり」とあり、次のように記されている。
「瀧泉寺にやすらはせ給ふ。御得物は雉子一、兎一、猪十ならびに菱喰一は、弓にて射とらせ給ひ、また鐵炮もて猪一を打せ給ひしに、その猪きずおひながら、本多吉三郎親成が邸内に走りいりけるを鐵炮方與力佐々木勘三郎孟成うちとめて御覧に備ふ」
瀧泉寺、つまり目黒不動で休憩したときのこの狩りも鷹狩りではなく、弓・鉄砲での狩りだった。
(掲載号:02月10日号)
